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歩いても歩いても × カーブドッチ ふらみんご
まだ固い午後が、開く。
幕間に一杯、
Red — 新潟

歩いても歩いても
× カーブドッチ ふらみんご

Still Walking, 2008 — 是枝裕和
prologue
夏の暗い台所で、画面の端から伸びた手が茄子ときゅうりを切り、奥の庭だけが明るい
午後三時、庭を開けたまま、茄子ときゅうりを切っていた。

瓶は、冷蔵庫に入れずに、台所の隅に立てておいた。夏の終わりの台所は、日が傾いても、まだ少し暑い。

栓を抜いて、ひと口ぶんだけ注ぐ。薄い赤。光にかざすと、少し濁っている。鼻を近づけると、果物より先に、鉄のような匂いがする。

まだ誰とも目を合わせていない、帰省した日の最初の一時間みたいな匂いだ。

グラスを置いて、再生する。

暗い画面に、包丁の音が先に来る。母のとし子が野菜の皮をむき、隣で娘のちなみが、手を動かしながらよくしゃべる。大根はきんぴらに。豚は角煮に。枝豆とみょうがは、混ぜご飯に。

今日は、十五年前に海で死んだ長男、純平の命日だ。

そのころ次男の良多は、妻のゆかりと、ゆかりの連れ子のあつしを連れて、実家へ向かっている。電車もあるし、やっぱり泊まらずに帰ろうか。まだ家に着いてもいないのに、良多はもう帰りの話をしている。

少し笑ってしまう。覚えがある。

グラスは、まだ固い。


wine
ふらみんご 2022 / カーブドッチ
ふらみんご 2022 / カーブドッチ

一杯の肖像

グラスを、窓のほうへかざす。

淡い赤で、少し濁っている。澄みきっていない、やわらかい赤だ。畑と蔵にもともといた酵母にまかせて醸された。

開けたては、無口だ。鉄と、かすかな火薬のような匂い。少し置くと、それがほどけて、苺とフランボワーズが出てくる。小さくて、赤くて、思っていたより華やかな香りだ。

その明るい香りの奥に、もうひとつ、少し野性的な匂いがある。干し草か、獣の毛並みのような。気づくと、もう消えない。

口に含むと、なめらかだ。果実は甘くならず、細い酸がまっすぐ通っていく。飲み込んだあと、出汁のような旨みが、舌の上に残る。赤ワインを飲んだはずなのに、台所の匂いが、口の中に戻ってくる。

新潟の海沿い、角田浜の砂の畑。カーブドッチが自分たちで育てた、樹齢二十年を超えるピノ・ノワールだ。「どうぶつシリーズ」は、造り手の掛川史人が、品種や土地の決まりごとをいったん脇に置いて、自分が本当に造りたいワインを造るための一本。

2022年の夏は、ほとんど雨だった。


pairing
使い込まれた揚げ鍋から、とうもろこしのかき揚げを菜箸で上げる途中の手元
油の泡が小さくなってから、かき揚げを上げた。

なぜ、歩いても歩いても に、このワインなのか

にぎやかな食卓の下に、言わないことがある。華やかな香りの下にも、野性と、出汁がある。

午後、台所 — 開けたてのうちに

良多が玄関を上がると、家の匂いが来る。父の恭平は、もう閉じた医院の診察室から、なかなか出てこない。父は、長男に医院を継がせるつもりだった。良多は絵の修復の仕事をしていて、いまは仕事がない。そのことを、両親には言っていない。

台所では、母がとうもろこしの粒をほぐして、かき揚げを揚げはじめる。衣が油に落ちて、細かく弾ける。子どもたちが、揚がる端からつまんでいく。

母の昔話の中で、良多の小さな思い出が、いつのまにか兄のものになっている。誰も、それを直さない。

グラスの中も、まだ鉄の匂いがする。口の中で、少し角がある。着いたばかりの家と同じで、どこに座ればいいのか、まだわからない。急いで飲まない。台所の音を聞きながら、置いておく。

夕方、毎年の客 — 香りが開いてくる

墓参りから戻ると、客がある。純平が十五年前、海で助けた青年、良雄だ。毎年、命日に線香を上げに来る。

菓子折りを持って、汗を拭きながら、何度も頭を下げる。家族はみんな、やさしい。母は冷たいものを出して、笑って見送る。

玄関が閉まってから、良多が言う。もう呼ばなくていいんじゃないか。あの人も、つらいだろう。

母は、穏やかな声のまま答える。十年やそこらで、忘れてもらっては困る。だから、来年も来てもらう。

この家でいちばんやさしい人の、いちばん奥にあったものが、一瞬だけ見える。

グラスは、少し温まってきた。鉄の匂いがほどけて、苺とフランボワーズが立ちのぼる。明るくて、華やかな香りだ。けれど、その奥に、さっきは気づかなかった野性の匂いがある。明るいほうに目を奪われて、見えていなかっただけだ。

夜、うなぎとレコード — なめらかになる

夜は、出前のうなぎを取る。母が朝から作った料理も、まだ食卓に並んでいる。

その夜、母が古いレコードをかける。いしだあゆみの『ブルー・ライト・ヨコハマ』。その曲には、夫婦のあいだでしか通じない、古い話がついている。父は、何も言わない。母も、何も言わない。ただ針が、最後まで歌を運んでいく。

グラスの中は、もうすっかり食卓の温度だ。角がとれて、なめらかになっている。華やかな香りが少し引いて、そのかわりに、出汁のような旨みが前に出てくる。角煮の脂のあとにひと口含むと、赤ワインなのに、母の台所の味がする。

言えなかったことも、言ってしまったことも、同じ食卓の上で、同じ温度になっていく。

翌朝、バス停 — 底のほう

帰る前に、良多は父と、今度いっしょにサッカーを見に行こうと話す。どちらも、たぶん本気だ。

バス停まで、母と父が見送りに来る。バスに乗ってから、良多は、前の日にどうしても出てこなかった相撲取りの名前を、ふっと思い出す。

いつもこうだ。いつも、ちょっとだけ間に合わない。

グラスは、底のほうだ。果実はもう遠い。舌の上に、出汁の旨みと、砂の畑のようなミネラルが、静かに残っている。開けたての鉄の匂いを、もう思い出せない。


ピノ・ノワールなら、ほかにもある。華やかで、よくできたものが、いくらでも。

それでもこの一本を、この映画の隣に置く。

2022年の角田浜は、8月も9月も雨が続いた。砂地のピノの持ち味は華やかな香りだが、それを支える果実が、この年は細かった。掛川は、収穫の季節をどうしたものかと、ほんとうに悩んだという。発酵の前に、畑の微生物をいつもより強く働かせた。房を茎ごと加えた。そうして、この一本は持ちこたえた。

だから、このワインの華やかさは、晴れた年のそれとは違う。雨の夏をくぐったあとの、控えめな明るさだ。その下に、野生の酵母の匂いと、出汁の旨みがある。

にぎやかで、やさしくて、その奥に言わないことを抱えた家の食卓に、よく似ている。

そして、雨の年は、一度きりだ。次のふらみんごは、別の夏の顔をしている。


terroir
雨上がりの砂地に置かれた収穫籠と濡れた作業手袋、その奥で風に傾くブドウ畑
雨が上がり、濡れた手袋だけが畝の端に残った。

角田浜 — 砂と、風と、雨の夏

新潟市の西の端、角田浜。日本海まで、歩いて行ける距離に畑がある。

足もとは砂だ。雨が降っても、水はすぐに下へ抜けていく。昼は海から、夜は陸から、風が畝のあいだを通り抜けて、湿気を運び去る。ブドウにとっては、ありがたい土地だ。

それでも2022年の夏は、風より雨が勝った。濡れた手袋で房を確かめて、また空を見上げる。そういう日が、何週間も続いたはずだ。

掛川は、雨が降れば泣く、と話している。畑の仕事は、最後のところで空に手が届かない。できるのは、その年に届いたものを受けとって、なんとか一本にまとめることだけだ。

十五年前の夏の海も、誰の手も届かなかった。この家の人たちは、その夏を受けとったまま、毎年、同じ食卓を囲んでいる。


how to drink
角煮と混ぜご飯が少し残る夕食後の食卓と、引かれた椅子、画面の端を離れる人の肩
皿を下げる前に、ひとりが席を立った。

この映画の夜に

瓶は、冷蔵庫から出しておくか、はじめから入れないでおく。少しひんやりするくらいでいい。冷やしすぎると、鉄の匂いのまま閉じてしまう。

料理を始める前に、栓を抜く。ひと口だけ注いで、あとは台所の隅に置いておく。包丁を使い、鍋を火にかけているあいだに、ワインのほうも少しずつほどけていく。

食卓には、揚げものと煮ものを。とうもろこしのかき揚げ、豚の角煮、きんぴら、枝豆の混ぜご飯。油と出汁のある皿なら、なんでも合う。グラスは、大きくなくていい。

映画の最初の台所の場面は、まだ固いまま。良雄が帰ったあとあたりで、香りが開く。レコードが回るころには、なめらかになっている。

できれば、ひとりでなく。夏の終わりや、秋の連休に実家へ帰るとき、一本持っていくのもいい。親の台所で、親の作ったものの隣で、開けてみる。

甘いものは、この瓶が空いてから。


epilogue

.

帰りの電車で、ふと思い出す。

母に聞かれて、答えられなかったこと。

次に帰ったら、話そう。

間に合ううちに。


Film

歩いても歩いても / Still Walking 2008 / 日本 / 114分(日本公開 2008-06-28) 監督・脚本・編集: 是枝裕和 撮影: 山崎裕 音楽: ゴンチチ 出演: 阿部寛, 夏川結衣, YOU, 樹木希林, 原田芳雄

配信
見放題 U-NEXT
レンタル Prime Video / Apple TV Store / FOD
2026年9月時点 · JustWatch

Wine

Cave D'occi / ふらみんご 2022 ピノ・ノワール 100%(自社畑、樹齢20年以上) どうぶつシリーズ / 野生酵母 / 12.5% 新潟市西蒲区角田浜

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ふらみんご

カーブドッチ

Region
新潟
Grape
Pinot Noir
Type
red
Vintage
2022
Serve
14–16℃

新潟・角田浜の砂地で育てた樹齢20年超の自社ピノ・ノワールを、野生酵母で醸した赤。淡く、少し濁った色。開けたては還元的で鉄っぽく固いが、時間とともに苺とフランボワーズの華やかな香りが開き、その奥に野性的なニュアンスがのぞく。口当たりはなめらかで、細い酸が通り、飲み込んだあとに出汁のような旨みが残る。雨の多かった2022年らしい、控えめな果実。

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Film

Still Walking

2008 / JP / Dir. 是枝裕和

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Wine

カーブドッチ / ふらみんご

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