
霧の朝、平らな土地の先が、すぐに灰色の空へ溶けていく。イングランド東部、ノーフォーク。
アンドリュー・ヘイの『さざなみ』は、引退した夫婦ケイトとジェフの、ある一週間を描く。土曜日には、結婚四十五周年のパーティが控えている。その週の月曜日、ジェフのもとにスイスから手紙が届く。半世紀前、二人で山を歩いていたときにクレバスへ落ちた恋人カチャの遺体が、解けはじめた氷河のなかから見つかった、という知らせだった。
映画はそこから、土曜日に向かって一日ずつ進む。大きな事件は起きない。夫は夜中に屋根裏へ上がり、やめていた煙草をまた吸いはじめる。妻はそれを、同じ家のなかで見ている。カメラはあまり動かず、二人を同じ画面に収めたまま、そのあいだの距離が少しずつ変わっていくのを撮る。
パーティで流れるのは、二人の結婚式で使った曲「煙が目にしみる」だ。四十五年前と同じ歌が、この夜には別の意味に聞こえる。
この一週間に合わせるのは、祝杯の泡ではない。長い時間を瓶のなかで過ごし、それでもまだ若さを残している、冷たい白を選んだ。

一杯の肖像
ラ・カーブ・ド・ベルヴィルは、パリ十九区のベルヴィルにあるナチュラルワインの店だ。2015年に、フランソワとトマの二人が開いた。店は自分たちの畑を持たない。親しい造り手に頼んで、店の名前で出すワインを仕込んでもらっている。ル・ブランはそのうちの一本で、造ったのはロワール地方、ナント近郊で畑を営むニコラ・ストーだ。
ブドウはムロン・ド・ブルゴーニュ。ミュスカデの名で知られる白ワインの品種だ。手で摘み、時間をかけてゆっくりと搾る。野生の酵母でコンクリートタンクの中で発酵させ、そのあと五ヶ月、澱の上に置いた。澱は、発酵を終えた酵母が底に沈んだもので、ワインをその上に寝かせておくと、旨味と厚みが移っていく。濾過はせず、酸化防止剤の亜硫酸も加えずに瓶に詰めている。
香りは洋梨とレモン。そこにナッツと、わずかに燻したような気配が混じる。口に含むと果実はさわやかで、酸と旨味がよく釣り合っている。揮発酸もある。酢にも含まれる、鼻にツンとくる成分で、多すぎれば欠点になる。この白では少し顔を出す程度で、口当たりのさわやかさは崩れない。余韻は、ミネラルとほのかな塩気で締まる。
亜硫酸を加えないワインは、守りがない分、時間の影響をまっすぐに受ける。瓶ごとの差も出やすい。2018年の収穫から、八年が経った。この白には、その時間がつけた香りと、まだ若い口当たりが、同時にある。

なぜ、さざなみに、ル・ブラン 2018 なのか
祝杯ではない。澱の下にあった、白。
氷の上の一週間
映画の二人は、ほとんど声を荒げない。ヘイのカメラは多くの場面で動かず、夫婦を同じ画面に収めたまま長く撮る。何が起きているのかを伝えるのは、台詞よりも、ふとした手の動きや、背を向ける角度のほうだ。ヘイはこの映画の結末を、ケイトが氷を踏み抜く瞬間だと語っている。だとすれば、それまでの一週間、彼女は割れ目を避けながら、凍った水面の上に立ち続けていたことになる。
ル・ブランの口当たりにも、よく似た二層がある。果実はさわやかで、酸と旨味が釣り合い、余韻は塩気とミネラルで締まる。表面は落ち着いている。そのすぐ下に、揮発酸のツンとした気配がかすかに走る。ただし、口の平静を壊すほどには出てこない。
落ち着いた表面と、その下の細い亀裂。映画が一週間をかけて見せるものを、このワインは一口のなかに持っている。
二つの時間
手紙が伝えたのは、カチャの遺体が氷のなかで、当時の姿のまま見つかったということだった。ジェフとケイトは四十五年分、年を取った。カチャだけが、若いまま止まっている。一つの家のなかに、積み重なった時間と、止まったままの時間が並んで置かれる。ケイトを揺さぶるのは、夫の昔の恋そのものより、その並び方のほうだ。
ル・ブラン 2018 にも、二つの時間がある。亜硫酸を加えずに瓶に詰められたこの白は、収穫から八年のあいだ、時間の影響をまっすぐに受けてきた。ナッツや燻したような香りは、その時間がつけた痕だ。一方で、口に含むと果実と酸はまだ若く、さわやかさが残っている。年を重ねた香りと、年を取っていない口当たりが、一杯のなかに並ぶ。
この白は、瓶に詰められる前の五ヶ月を、澱の上で過ごしている。底に沈んだものは、グラスに注いでも目には見えない。けれど、旨味として味の奥に残る。手紙が届くまで、マーサー家の暮らしも、その下にある時間を見せずにいた。
よく冷やして飲むと、二つの時間の対比がいちばんはっきりする。古びた香りの奥から、若いほうの味が、冷たいまま舌に届く。
泡ではなく
四十五周年のパーティは、原作の短編にはない。ヘイが脚本で足したものだ。祝いの日取りは動かせない。その日に向かって一週間が進み、夫婦に立ち止まって考える時間を与えない。会場では乾杯が交わされ、ジェフはスピーチで声を詰まらせる。祝福の形は、すべて揃っている。それでも、最後の一曲が終わり、ジェフが二人の手を高く掲げたとき、ケイトはその腕を振り下ろす。
だから、この映画に合わせるのに祝杯の泡は選ばなかった。泡は、パーティの側の飲みものだ。映画が見つめているのは、その手前の一週間、台所や寝室や屋根裏で過ぎていく時間のほうにある。そこに置くなら、華やかさではなく、落ち着いた口当たりの下に揺らぎを抱えた白がいい。

ラ・ルモディエールを旅する
ラ・ルモディエールは、ナントから東へ向かった先にある小さな村だ。ロワール川の河口に近い、ミュスカデの畑が広がる一帯にある。
畑の土には砂が混じり、石が多い。その下には、片麻岩や雲母片岩が横たわる。どちらも、地中の熱と圧力で長い時間をかけて姿を変えた岩だ。水はけのよいこうした土地のムロンは、締まった酸と、塩気を思わせる余韻で語られることが多い。ル・ブランの後味に残る塩気とミネラルも、その系譜のうえにある。
ニコラ・ストーがこの村で親の農園を継いだのは、2007年のことだ。当時の畑は慣行農法で、肉牛も飼われていた。ストーはそこから、少しずつ畑のやり方を変えていく。畝のあいだには草を残し、土は浅くしか耕さない。収穫は手で行い、搾りには時間をかける。店に頼まれて仕込んだル・ブランも、この畑の延長にある。
2018年の秋にこの村で摘まれたムロンは、コンクリートの槽で発酵し、澱の上で冬を越した。それからパリの店の名前で瓶に詰められ、海を渡り、八年後の食卓に届く。映画の家があるノーフォークとは、遠く離れた土地だ。土地が似ているから選んだのではない。瓶のなかで過ぎた時間が、この映画に合うから選んだ。

この映画の夜に
温度: 8〜10度。冷蔵庫でしっかり冷やし、飲む五分ほど前に出す。温度が上がると揮発酸の香りが前に出てくるので、ぬるくなってきたら瓶を冷蔵庫に戻す。
グラス: 小ぶりの白ワイングラスで十分。大きなグラスで空気に触れさせるより、冷たさを保つほうを優先したい。
食事: 焼いた鶏、白身魚のムニエル、胡桃、塩気のあるハードチーズ。旨味と塩気のある白なので、味つけの強すぎない料理がよく合う。
タイミング: 開けたての一杯と、三十分ほど置いた一杯とで、表情が変わる。亜硫酸を加えていないワインは瓶ごとの差も大きい。最初の一口で様子を見てから、飲むペースを決めたい。
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歌は、四十五年前と同じだった。
変わったのは、聴いている側だ。
グラスの白は、まだ冷たい。
Film
さざなみ / 45 Years 2015 / イギリス / 95分(日本公開 2016-04-09) 監督・脚本: アンドリュー・ヘイ 原作: デイヴィッド・コンスタンティン「In Another Country」 撮影: ロル・クローリー 出演: シャーロット・ランプリング, トム・コートネイ
配信
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2026年9月時点
Wine
La Cave de Belleville / ル・ブラン 2018 ムロン・ド・ブルゴーニュ 100% コンクリートタンク発酵、シュール・リー5ヶ月、亜硫酸無添加 醸造: Nicolas Suteau / La Remaudière, Loire





