アイズ ワイド シャット × ラ・ロージ モスカテッロ
室内灯の、橙。
幕間に一杯、
Orange — ヴェネト

アイズ ワイド シャット
× ラ・ロージ モスカテッロ

Eyes Wide Shut, 1999 — スタンリー・キューブリック
prologue
雨上がりの冬の住宅街。橙の店内灯と青緑の通りの前を、通行人がぶれて横切る
雨上がり、店の灯だけが通りに残っていた。

寝室のランプが、壁を橙に染めている。ベッドの上で、アリスと夫のビルが一本の巻き煙草を回している。昨夜のパーティで、ほかの女と何を話していたの。問いつめるうちに、彼女は去年の夏の話を始める。

海辺のホテルで、一度だけ目が合った海軍士官がいた。言葉は交わしていない。それでも、あの人に求められたら、何もかも捨ててよかった。言い終えると、アリスは床に崩れて笑いだす。ビルは、何も言えない。

そこへ電話が鳴り、患者の訃報が届く。医師の顔に戻ってコートを着たビルは、そのまま冬のニューヨークを一晩じゅう歩くことになる。行く先々で誘いが差し出され、そのたびに何かが割って入る。スタンリー・キューブリックの『アイズ ワイド シャット』は、約束されたまま一度も果たされない欲望の夜を、159分かけて歩く映画だ。

あの寝室のランプの下に、置きたい一本がある。香りは甘く誘うのに、口に含むとまったく甘くない、橙のワインだ。


wine
モスカテッロ 2021 / ラ・ロージ
モスカテッロ 2021 / ラ・ロージ

一杯の肖像

ラ・ロージは、ヴェネトのコッリ・エウガネイにある、エリーザ・モレットの小さな蔵だ。畑はおよそ2ヘクタール。年に六千本ほどしか造らない。

モスカテッロ 2021 は、樹齢六十六年のモスカートからできている。房は手で除梗し、足で踏んで、そのまま三十日、皮と一緒に置く。白ワインならすぐに別れる皮と、ひと月をともにする。濾過はせず、亜硫酸も加えない。

グラスに注ぐと、色は橙。鼻を近づけると、花と柑橘の香りが立ちのぼる。モスカートと聞いて多くの人が思い浮かべる、あの華やかな香りだ。とろりとした甘口を、つい予感する。

ところが口に含むと、甘さはどこにもない。糖をすっかり食べきった辛口で、酸がいきいきと走る。三十日の皮が残した渋みが、舌の上をしっかりとつかむ。花と柑橘の軽やかさと、古い樹の実だけが持つ奥行き。ふつうは別々の瓶にあるものが、一杯のなかで同居している。

香りは誘い、口は醒めている。その食い違いが、このワインのいちばんの面白さだ。


pairing
冬の寝室。橙のベッドサイドランプ、青い窓、乱れた寝具と上着を掛けた椅子
夕方、上着と靴下が椅子のそばに残っていた。

なぜ、アイズ ワイド シャットに、モスカテッロ 2021 なのか

香りは誘い、口は醒めている。

甘い約束

ジーグラー邸のパーティで、ハンガリー人の男がアリスのシャンパングラスを取り、勝手に口をつける。ビルのほうは、二人のモデルに両腕を取られ、どこかへ連れていかれそうになる。この映画では、誘いがいつも、グラスや囁きの形で先に届く。

アリスの告白も同じだ。海軍士官とは、何も起きていない。目が合っただけの相手に、すべてを差し出す想像をした。起きなかったことのほうが、起きたこと以上に、ビルを揺さぶる。

モスカテッロの香りも、甘い約束をする。花と柑橘が、とろりとした一杯を思わせる。グラスに鼻を近づけた瞬間が、この夜のはじまりだ。

口は、乾いている

約束は、果たされない。ビルが街で出会った女の部屋に上がると、妻から電話が鳴る。ピアニストの友人から聞き出した館へ忍び込めば、仮面をはがされ、追い返される。誘いの入口まで来ては、そのたびに夜は乾いたまま終わる。

グラスも、同じ道をたどる。香りに誘われて口に含むと、甘さはない。残るのは、きりっとした酸と、舌をつかむ渋みだ。夢のような予感から、醒めた手ざわりへ。この映画は、そのあいだを行き来しつづける。

甘口を期待した人は、最初のひと口で少し驚くかもしれない。その肩すかしごと、この映画に合っている。そして二口目からは、乾いた口のなかで、花の香りがかえって鮮やかに感じられる。

橙の部屋へ

夜の街を歩き回ったビルは、夜明け前に家へ帰る。寝室には、出ていったときと同じランプが灯っている。撮影のラリー・スミスは、家の電球をわざと絞って、室内を橙に寄せた。窓の外は、月夜より青い。どれだけ遠くをさまよっても、帰る部屋は橙の灯のなかにある。

このワインも、大がかりな地下蔵ではなく、家の規模で造られている。プラスチックの槽と、足と、木の棒。三十日の皮が、白い果汁を、あの寝室の灯と同じ色に変えた。夜の館で回される酒ではない。帰ってきた部屋で、ランプの下で、夫婦が注ぎあう酒だ。


terroir
草の残る丘へ開いた小さな醸造作業場。プラスチック槽、ステンレスタンク、ホースと手袋
雨上がり、開いた扉の手前で作業が続いていた。

丘の畑を旅する

パドヴァの南西、ヴェネトの平らな野のなかに、コッリ・エウガネイの丘がいくつも盛り上がっている。古い火山の名残で、一帯は州立公園だ。粘土と石灰の下に、火山の層が眠る。ラ・ロージの畑は標高およそ190メートル。畝のあいだの草は刈らず、農薬も撒かない。

1974年、エリーザの母ロザンナと父フランチェスコが、この畑を買った。1998年に会社にしたとき、名前は母からとった。それでも長いあいだ、ここのワインは自分たちのラベルを持たず、量り売りで出ていった。

2013年、娘のエリーザが丘へ戻ってくる。彼女は、家の畑でできた液体を、家の瓶に詰めることにした。いまも槽を足で踏み、木の棒で皮を沈める。海外へ最初に送った先は、日本だったという。

モスカテッロの樹は、樹齢六十六年。エリーザが生まれるよりずっと前から、この丘に根を張ってきた。古い樹は、たくさんの房をつけない。そのぶん、ひと粒に味が詰まる。花と柑橘の香りの奥にある、ただ軽やかなだけではない重心は、この樹から来ている。


how to drink
食後の台所。食べかけの皿と引かれた椅子の横を、席を立った人が通り過ぎる
食後、皿を残して一人が席を立った。

この映画の夜に

温度: 12〜14℃。冷やしすぎると香りが閉じ、渋みばかりが前に出る。冷蔵庫から出して、上映の三十分ほど前から卓に置いておく。

グラス: 白ワイン用の、少し大きめのもの。花と柑橘の香りが立ちのぼる余地をつくる。

時間: 159分。長い夜なので、急がずにいきたい。冒頭のパーティから注ぐ。香りの甘さと口の乾き、その食い違いをまず確かめる。寝室の告白のあたりで、注ぎ足す。ビルが夜の街へ出てからの長い道のりは、グラスの温度が少しずつ上がり、香りがほどけていくのに任せる。最後のひと口は、夫婦がもう一度向き合う場面のために残しておく。

食事: 酸と渋みがあるので、脂のある皿をしっかり受けとめる。皮目をこんがり焼いた鶏に、柑橘をひと搾り。生ハムや、熟成したハードチーズもいい。甘いデザートとは合わせない。ワインの苦みばかりが目立ってしまう。

注ぎ方: 濾過していないので、瓶の底に澱が残ることがある。最後は、瓶をそっと傾けて。


epilogue

.

クリスマスの買い物客で混み合うおもちゃ屋を、夫婦は娘の後ろについて歩く。

あの夜のことが夢だったのかどうか、確かめる術はない。いまは目が覚めている、とアリスは言う。

グラスに残った一杯は、まだ花の香りがして、口はやはり乾いている。


Film

アイズ ワイド シャット / Eyes Wide Shut 1999 / アメリカ / 159分(日本公開 1999-07-31) 監督・製作: スタンリー・キューブリック 脚本: スタンリー・キューブリック, フレデリック・ラファエル 原作: アルトゥール・シュニッツラー『Traumnovelle』 撮影: ラリー・スミス 出演: トム・クルーズ, ニコール・キドマン, シドニー・ポラック ※映倫 R18+

配信
見放題 U-NEXT / Hulu
レンタル Prime Video
2026年9月時点

Wine

La Rosi / モスカテッロ 2021 モスカート(樹齢66年) 手除梗、足ピジャ、マセレーション30日、ステンレスタンク、ノンフィルター コッリ・エウガネイ、ヴェネト

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モスカテッロ 2021

ラ・ロージ

Region
ヴェネト
Grape
Moscato
Type
orange
Vintage
2021

モスカート

残りわずか

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この一杯に近い幕


Film

Eyes Wide Shut

1999 / US / Dir. スタンリー・キューブリック

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Wine

ラ・ロージ / モスカテッロ 2021

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