
寝室のランプが、壁を橙に染めている。ベッドの上で、アリスと夫のビルが一本の巻き煙草を回している。昨夜のパーティで、ほかの女と何を話していたの。問いつめるうちに、彼女は去年の夏の話を始める。
海辺のホテルで、一度だけ目が合った海軍士官がいた。言葉は交わしていない。それでも、あの人に求められたら、何もかも捨ててよかった。言い終えると、アリスは床に崩れて笑いだす。ビルは、何も言えない。
そこへ電話が鳴り、患者の訃報が届く。医師の顔に戻ってコートを着たビルは、そのまま冬のニューヨークを一晩じゅう歩くことになる。行く先々で誘いが差し出され、そのたびに何かが割って入る。スタンリー・キューブリックの『アイズ ワイド シャット』は、約束されたまま一度も果たされない欲望の夜を、159分かけて歩く映画だ。
あの寝室のランプの下に、置きたい一本がある。香りは甘く誘うのに、口に含むとまったく甘くない、橙のワインだ。

一杯の肖像
ラ・ロージは、ヴェネトのコッリ・エウガネイにある、エリーザ・モレットの小さな蔵だ。畑はおよそ2ヘクタール。年に六千本ほどしか造らない。
モスカテッロ 2021 は、樹齢六十六年のモスカートからできている。房は手で除梗し、足で踏んで、そのまま三十日、皮と一緒に置く。白ワインならすぐに別れる皮と、ひと月をともにする。濾過はせず、亜硫酸も加えない。
グラスに注ぐと、色は橙。鼻を近づけると、花と柑橘の香りが立ちのぼる。モスカートと聞いて多くの人が思い浮かべる、あの華やかな香りだ。とろりとした甘口を、つい予感する。
ところが口に含むと、甘さはどこにもない。糖をすっかり食べきった辛口で、酸がいきいきと走る。三十日の皮が残した渋みが、舌の上をしっかりとつかむ。花と柑橘の軽やかさと、古い樹の実だけが持つ奥行き。ふつうは別々の瓶にあるものが、一杯のなかで同居している。
香りは誘い、口は醒めている。その食い違いが、このワインのいちばんの面白さだ。

なぜ、アイズ ワイド シャットに、モスカテッロ 2021 なのか
香りは誘い、口は醒めている。
甘い約束
ジーグラー邸のパーティで、ハンガリー人の男がアリスのシャンパングラスを取り、勝手に口をつける。ビルのほうは、二人のモデルに両腕を取られ、どこかへ連れていかれそうになる。この映画では、誘いがいつも、グラスや囁きの形で先に届く。
アリスの告白も同じだ。海軍士官とは、何も起きていない。目が合っただけの相手に、すべてを差し出す想像をした。起きなかったことのほうが、起きたこと以上に、ビルを揺さぶる。
モスカテッロの香りも、甘い約束をする。花と柑橘が、とろりとした一杯を思わせる。グラスに鼻を近づけた瞬間が、この夜のはじまりだ。
口は、乾いている
約束は、果たされない。ビルが街で出会った女の部屋に上がると、妻から電話が鳴る。ピアニストの友人から聞き出した館へ忍び込めば、仮面をはがされ、追い返される。誘いの入口まで来ては、そのたびに夜は乾いたまま終わる。
グラスも、同じ道をたどる。香りに誘われて口に含むと、甘さはない。残るのは、きりっとした酸と、舌をつかむ渋みだ。夢のような予感から、醒めた手ざわりへ。この映画は、そのあいだを行き来しつづける。
甘口を期待した人は、最初のひと口で少し驚くかもしれない。その肩すかしごと、この映画に合っている。そして二口目からは、乾いた口のなかで、花の香りがかえって鮮やかに感じられる。
橙の部屋へ
夜の街を歩き回ったビルは、夜明け前に家へ帰る。寝室には、出ていったときと同じランプが灯っている。撮影のラリー・スミスは、家の電球をわざと絞って、室内を橙に寄せた。窓の外は、月夜より青い。どれだけ遠くをさまよっても、帰る部屋は橙の灯のなかにある。
このワインも、大がかりな地下蔵ではなく、家の規模で造られている。プラスチックの槽と、足と、木の棒。三十日の皮が、白い果汁を、あの寝室の灯と同じ色に変えた。夜の館で回される酒ではない。帰ってきた部屋で、ランプの下で、夫婦が注ぎあう酒だ。

丘の畑を旅する
パドヴァの南西、ヴェネトの平らな野のなかに、コッリ・エウガネイの丘がいくつも盛り上がっている。古い火山の名残で、一帯は州立公園だ。粘土と石灰の下に、火山の層が眠る。ラ・ロージの畑は標高およそ190メートル。畝のあいだの草は刈らず、農薬も撒かない。
1974年、エリーザの母ロザンナと父フランチェスコが、この畑を買った。1998年に会社にしたとき、名前は母からとった。それでも長いあいだ、ここのワインは自分たちのラベルを持たず、量り売りで出ていった。
2013年、娘のエリーザが丘へ戻ってくる。彼女は、家の畑でできた液体を、家の瓶に詰めることにした。いまも槽を足で踏み、木の棒で皮を沈める。海外へ最初に送った先は、日本だったという。
モスカテッロの樹は、樹齢六十六年。エリーザが生まれるよりずっと前から、この丘に根を張ってきた。古い樹は、たくさんの房をつけない。そのぶん、ひと粒に味が詰まる。花と柑橘の香りの奥にある、ただ軽やかなだけではない重心は、この樹から来ている。

この映画の夜に
温度: 12〜14℃。冷やしすぎると香りが閉じ、渋みばかりが前に出る。冷蔵庫から出して、上映の三十分ほど前から卓に置いておく。
グラス: 白ワイン用の、少し大きめのもの。花と柑橘の香りが立ちのぼる余地をつくる。
時間: 159分。長い夜なので、急がずにいきたい。冒頭のパーティから注ぐ。香りの甘さと口の乾き、その食い違いをまず確かめる。寝室の告白のあたりで、注ぎ足す。ビルが夜の街へ出てからの長い道のりは、グラスの温度が少しずつ上がり、香りがほどけていくのに任せる。最後のひと口は、夫婦がもう一度向き合う場面のために残しておく。
食事: 酸と渋みがあるので、脂のある皿をしっかり受けとめる。皮目をこんがり焼いた鶏に、柑橘をひと搾り。生ハムや、熟成したハードチーズもいい。甘いデザートとは合わせない。ワインの苦みばかりが目立ってしまう。
注ぎ方: 濾過していないので、瓶の底に澱が残ることがある。最後は、瓶をそっと傾けて。
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クリスマスの買い物客で混み合うおもちゃ屋を、夫婦は娘の後ろについて歩く。
あの夜のことが夢だったのかどうか、確かめる術はない。いまは目が覚めている、とアリスは言う。
グラスに残った一杯は、まだ花の香りがして、口はやはり乾いている。
Film
アイズ ワイド シャット / Eyes Wide Shut 1999 / アメリカ / 159分(日本公開 1999-07-31) 監督・製作: スタンリー・キューブリック 脚本: スタンリー・キューブリック, フレデリック・ラファエル 原作: アルトゥール・シュニッツラー『Traumnovelle』 撮影: ラリー・スミス 出演: トム・クルーズ, ニコール・キドマン, シドニー・ポラック ※映倫 R18+
配信
見放題 U-NEXT / Hulu
レンタル Prime Video
2026年9月時点
Wine
La Rosi / モスカテッロ 2021 モスカート(樹齢66年) 手除梗、足ピジャ、マセレーション30日、ステンレスタンク、ノンフィルター コッリ・エウガネイ、ヴェネト





