
栓を抜く前に、ボトルを冷蔵庫から出しておく。
グラスに注ぐ。白ワインのはずなのに、薄い琥珀色をしている。夕方の海の、いちばん浅いところの色。
ひと口、含む。まず、塩がくる。海で泳いだあと、唇をなめたときの味。
再生する。
白黒の海。ギリシャの小さな島で、少年が岩の上から水を覗いている。
もうひとりの少年、エンゾが、海の底に硬貨を投げる。取ってこい、と言う。ジャックは首を振る。
そのすぐあとで、ジャックの父が潜ったまま、上がってこなくなる。岩に空気の管を裂かれて。少年たちは、それを岸から見ている。
ジャックは、泣かない。ひとりで桟橋の先まで歩いていって、海を見ている。
そして、水の中へ入っていく。

一杯の肖像
グラスを、灯りのほうへ傾ける。
淡い琥珀。濾していないから、輪郭がわずかに滲む。水面の下から見上げた、光の輪のように。
白ぶどうを、皮ごと四日間、漬けておいた白だ。そのあいだに皮の色と手ざわりが移って、透明だったはずの液体が、一段深いところの色になった。
冷たいうちは、口が締まっている。レモンの皮と、塩。舌の上を、細かい渋みがさらさらと通っていく。軽いのに、薄くない。
畑は、シチリアのエトナ山。北東の斜面の、標高750メートル。黒い火山の砂に、石を積んだ段々畑がつくってある。樹は七十年ほど生きていて、一本ずつ低く、杖に沿って立っている。
造っているのは、ダヴィデ・ベンティヴェーニャ。カターニアの丘の生まれで、半生を国外で過ごした。シーメンスという大きな会社で働きながら、少しずつ、故郷の火山に畑を持ちはじめた。はじめて自分のワインを仕込んだのは、2,010年だ。
野生の酵母で発酵させて、濾さず、澄まさず、亜硫酸も加えない。畑で起きたことが、そのままボトルに入っている。

なぜ、グラン・ブルーにこのワインなのか
海のない国の葡萄が、火山の上で、海の味になった。
水面 — 冷たいうちに
二十年が経つ。
エンゾは、素潜りの世界王者になっている。シチリアのタオルミーナで、沈んだ船に閉じこめられた潜水夫を、ひと息で引き上げてくる。報酬を受けとると、次の瞬間には、ジャックという男を探せ、と言う。
ジャックは、ペルーの山の上にいる。氷の張った湖に沈んで、医者たちに心臓の音を測られている。潜るほど、彼の鼓動は遅くなる。人間より、イルカに近い速さで。
岸で見ているのは、ジョアンナ。保険の仕事でたまたま来ていた、ニューヨークの女性だ。氷の下から上がってきた男を見て、彼女は、もう一度この人に会う理由をでっちあげる。
タオルミーナで、二人は再会する。大会の夜、ホテルのプールの底に、シャンパンを持って沈む。息を止めたまま、瓶を回しあう。水の中で、少年のように笑っている。
グラスは、まだ冷たい。レモンの皮と、塩。締まった口の中で、渋みがきゅっと鳴る。プールの底の二人のように、まだ、息を止めている味だ。
青が薄くなるところ — 温まってきて
ジャックは、イルカの写真を財布に入れている。家族は、と聞かれると、それを見せる。
ある夜、ジャックとジョアンナは、水族館に忍びこむ。水槽の中で弱っていた一頭を、布の担架に乗せて、海まで運ぶ。放たれたイルカは、暗い沖へ消えていく。
ジョアンナは聞く。海の底に行くと、どうなるの。
ジャックは、答える。ずっと下まで降りていくと、水はもう青くない。空は、覚えているだけのものになる。そこで、静けさの中に浮かんでいる。そこに留まっていたいと思う。
彼女は、その場所へは一緒に行けない。
グラスは、手の温度に近づいてきた。レモンが引いて、干した杏と、オレンジの皮が立ちのぼる。黒い石を割ったような匂いが、その奥にある。色も、さっきより少し濃く見える。
青のずっと先の、青くない色。この琥珀は、たぶんそこにある。
底 — 残りのひと口
記録は、深くなっていく。医者は止める。深すぎる、と。
ジャックが、エンゾの記録を越える。エンゾは引き下がらない。医者の言葉を聞かずに、さらに深くへ降りていく。
上がってきたエンゾは、もう助からない。ジャックの腕の中で、彼は言う。下のほうがいい。連れていってくれ。
ジャックは、友を抱えて、夜の海に潜る。浮かんでこなくなる深さまで。そして、手を離す。
グラスは、底のほうだ。果実はもう引いて、残るのは、皮の渋みと、オレンジの皮のほろ苦さ。それから、塩。はじめに唇をなめたときと同じ、海の味が、最後にもう一度はっきりと戻ってくる。
このワインのぶどうの7割は、シャスラという品種だ。
シャスラは、スイスのレマン湖のほとりや、フランスの山あいで育てられてきた葡萄として知られている。海から遠い、陸の葡萄だ。それがなぜ、シチリアの火山に七十年も根を張っているのか、造り手たちにも、はっきりとは分からないという。スイス海軍が運んできたんだろう、と冗談を言う人もいる。スイスには、海がない。
その陸の葡萄が、火山の上で、海の味になった。
残りの3割は、トレッビアーノとグレカニコ、モスカート。イタリアの葡萄と、シチリアの葡萄だ。フランスの男と、シチリアの男。一本のボトルの中で、二人は並んでいる。
オレンジワインなら、ほかにもある。エトナの白も、ほかにある。それでもこの一本をこの映画の隣に置くのは、陸で生まれて、海の味を覚えた葡萄だからだ。
ジャックも、たぶん、そうだった。

エトナ — 火山の上から、海を見る
シチリアの東の端。ヨーロッパでいちばん大きな活火山が、地中海を見下ろしている。山頂からは、いまも白い煙が上がる。
北東の斜面を登っていくと、道の両側の土が黒くなる。何度も流れた溶岩が、長い時間をかけて砕けた砂だ。靴の底で、さくさくと鳴る。
段々畑の石垣は、その溶岩の石を積んだものだ。低く仕立てた樹が、息がかかるほど近くに並んでいる。根は、水を探して、黒い砂の下へ深く降りていく。
750メートルの畑から、晴れた日には、海が見える。
その海岸を北へたどると、タオルミーナの崖がある。エンゾが潜った海と、この畑は、同じ青を見ている。

この映画の夜に
映画を始める少し前に、ボトルを冷蔵庫から出しておく。瓶に触れて、指先がひんやりするくらい。そこから、ゆっくり温まっていくのがいい。
グラスは、ふつうの白ワイングラスで。顔を近づけて、香りを聴くくらいの大きさ。
テーブルには、焼いたイカに、塩とレモン。あれば、白身の刺身か、牡蠣をいくつか。海辺の食堂で出てくるような、素材だけの皿がいい。
部屋の灯りは、少し落とす。画面の青が、部屋の中まで満ちてくるくらいに。
グラスは、映画と一緒に進める。プールの底でシャンパンが回るころは、まだ冷たい。イルカが沖へ帰るころ、杏の香りが立つ。
残りのひと口は、エンゾがいなくなったあとのために、とっておく。
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ジャックは、陸に上がる理由を探していた。
グラスの底に、塩がひとすじ残っている。
息を吸って、飲みほす。
Film
グラン・ブルー / Le Grand Bleu 1988 / France / 132分(オリジナル版)・168分(完全版) 監督: リュック・ベッソン 撮影: カルロ・ヴァリーニ 音楽: エリック・セラ 出演: ジャン=マルク・バール, ジャン・レノ, ロザンナ・アークエット
配信
見放題 Netflix / Hulu / U-NEXT / Netflix Standard with Ads ほか
レンタル Prime Video
2026年9月時点 · JustWatch
Wine
Etnella / Attia Bianco Macerato 2019 Chasselas 70% / Trebbiano 15% / Grecanico 10% / Moscato 5% 樹齢約70年・アルベレッロ / 標高750m・北東斜面 / 火山性土壌 野生酵母 / 果皮浸漬4日間 / ステンレス / 無濾過・無清澄・亜硫酸無添加 Etna, Sicily, Italy






