右足は、ギプスで固められている。
録音技師のヴィンターは、その足で車を運転して、ヨーロッパを縦断してきた。途中でラジエーターが煮えたときは、手元にあった炭酸飲料を注ぎ込んで、また走った。彼を呼んだのは、一枚の葉書だ。リスボンに来てくれ。差出人は、古い友人の映画監督、フリードリヒ。
着いた家に、フリードリヒはいない。
残っているのは、編集機材と、何巻ものフィルム。手回しのカメラで撮った、リスボンの街角。白い壁。風をはらむ洗濯物。坂をのぼっていく路面電車。音は、ひとつもない。壁には、ペソアの詩の一節が書きつけてある。
ヴィンターは、マイクを持って窓を開ける。
ヘッドホンの中に、街が流れ込んでくる。鳩の羽音。遠くの鐘。石畳を叩く靴底。どこかの台所で、皿を重ねる音。
観終わると、耳が変わっている。冷蔵庫の低い唸り。窓の外を通りすぎる車。自分の息の音。
その耳のまま、一本の白を開けてほしい。グラスに注ぐ音から、もう録音ははじまっている。

一杯の肖像
冷蔵庫から出したボトルを、テーブルに置く。表面に、細かい水滴が浮いてくる。
栓を抜く。小さく、乾いた音がする。
注ぐ。細い水音が、グラスが満ちるにつれて少しずつ低くなる。色は、淡い麦わら色。窓の光にかざすと、液面が細かく光る。
鼻を近づける。まず、花の香り。そのすぐ後ろから、グレープフルーツが濃く立ちのぼる。
口に含む。酸はおだやかで、角がない。果実がやわらかく広がって、飲み込んだあとに、ミネラルとハーブの気配がすうっと長く続く。アルコールは11.5%。喉を通るのが、早い。
Micaは、雲母のことだ。薄く剥がれて光る、あの鉱物。畑の土に多く混ざっていて、それがこの白に、細い芯を一本通している。
造っているのは、ヴィーニョ・ヴェルデ圏の南、ソウザ地区の栽培家たち。四人で、本当においしいヴィーニョ・ヴェルデを造ろうと、組合を立ち上げた。ロウレイロ、トレイシャドゥラ、アルヴァリーニョ、アリント、アヴェッソ。それぞれの畑から、土地の品種を五つ持ち寄る。
手で摘み、搾り、ステンレスのタンクで、野生の酵母に低い温度のまま発酵させる。亜硫酸は加えない。その代わりに、ブドウを搾るとき、栗の花を一緒に入れる。フィルターも通さない。

なぜ、リスボン物語にこの白なのか
ひとつずつは、小さな音。重なると、街になる。
音のない街
ヴィンターは、フィルムに映っていた場所を、ひとつずつ訪ねて歩く。ギプスの足で坂を上り、路地を下りる。マイクを向けると、誰も気に留めなかった音が、急に輪郭を持ちはじめる。
その後ろを、ビデオカメラを手にした子どもたちがついてくる。ファインダーを覗かずに、目に入ったものを片端から撮っている。
最初のひと口は、ここで。
冷えたグラスの中で、グレープフルーツが先に来る。香りはまだ控えめで、ミネラルの細い線が一本、舌の上をまっすぐに走る。録りはじめたばかりの、まだ数の少ない音に似ている。
ひとつずつは、効果音くらいの小さな音だ。ロウレイロの花。アルヴァリーニョの果実。アリントの張り。どれも、単独で主役を張る派手さはない。でも重なった瞬間、グラスの中に、路地がひとつできる。
マドレデウスが歌う部屋
フリードリヒの映画のために、音楽をつけるはずだったバンドがいる。マドレデウス。ヴィンターは、彼らの練習に立ち会う。
ギター、チェロ、アコーディオン。その上に、テレーザ・サルゲイロの声が乗る。高く、澄んで、どこか遠くを見ている声だ。録音技師のヴィンターが、その声から目を離せなくなる。
このころには、グラスが少し温まっている。注ぎ足す前に、残りをもう一口。
冷たさがほどけて、花の香りが前に出てくる。グレープフルーツの後ろに隠れていた白い花が、ゆっくりと手前に歩いてくる。同じ一本の中で、音の配置が変わっていく。
伝言を、音で
ようやく見つけたフリードリヒは、カメラを背中にくくりつけて、街を歩いていた。
ファインダーを覗けば、映像は撮る者の意志で濁る。だから、誰も覗かずに撮った映像だけを集めて、誰にも見せずにしまっておく。子どもたちのビデオカメラも、その計画の一部だった。そう言って、彼は自分の映画を投げ出していた。
ヴィンターは、言い負かそうとはしない。自分の道具を使う。録音機に、友人への伝言を吹き込む。何を言ったのかは、ここには書かない。映画の中で、聴いてほしい。
このワインも、ひとりの署名では造られていない。四人の栽培家が、それぞれの畑のブドウを持ち寄って、ひとつの白にする。誰かひとりの才能ではなく、合奏だ。
最後は、この場面のために残しておく。部屋の温度に近づいたグラスの底で、ミネラルとハーブの余韻が、いちばん長く続く。伝言が終わったあとも、しばらく回り続けるテープのように。

ミーニョを旅する
リスボンから北へ、300キロ余り。ポルトに近い内陸に、ソウザ川とタメガ川にはさまれた谷がある。どちらも、ドウロ川へ流れ込む支流だ。
大西洋から湿った風が入り、雨を運ぶ。丘は、ブドウ棚と野菜畑と石の家で、まだらに埋まっている。村の外れには花崗岩で組んだ古い洗い場が残り、水路を水が走っていく。
Micaの畑は、この谷の標高300メートルほどの斜面にある。ブドウの樹は、樹齢33年。
足元は、石ころだらけの痩せた花崗岩の土だ。そこに、雲母が多く混ざっている。雨上がりに畝を歩くと、濡れた土の中で、薄い鉱物の欠片が小さく光る。
このあたりのワインは、昔から「ヴィーニョ・ヴェルデ」と呼ばれてきた。緑のワイン。雨の多い、緑の濃い土地の白だ。
リスボンに戻って足元を見ると、石畳は白い石灰岩と黒い玄武岩のモザイクになっている。北の畑では雲母が、南の路地では石灰岩が、同じように光を跳ね返す。ヴィンターが録って回ったのは、その上で鳴る音だった。

この映画の夜に
温度: 冷蔵庫でよく冷やして、8〜10℃から。観はじめる直前に開ける。氷水に浸けっぱなしにはしない。少しずつ温まるにつれて、香りの配置が変わっていく。その変化も、このワインの楽しみのうちだ。
グラス: 小ぶりの白ワイングラス。少なめに注いで、回数を増やす。
食事: イワシ。塩焼きでも、オイルサーディンでも。茹でたじゃがいもに、オリーブオイルと塩。タコのマリネ。グレープフルーツの香りとハーブの余韻が、青魚の脂と塩をきれいに洗っていく。缶詰なら、プルタブを引く音も録音のうちだ。
音量: いつもより、ひとつ上げて観る。この映画は、耳で観る映画だ。
タイミング: ヴィンターが誰もいない家で窓を開けたら、栓を抜く。街の音を録って歩くあいだに、冷えたままのひと口を。マドレデウスが歌いはじめたら、残りを飲んで、注ぎ足す。フリードリヒを見つけてからは、急がない。最後は、伝言が流れる場面まで取っておく。
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映画の最後、ヴィンターとフリードリヒは、 手回しのカメラとマイクを持って、 二人で街へ出ていく。
グラスは、空になった。
耳を澄ますと、窓の外で、 まだ街が鳴っている。
Film
リスボン物語 / Lisbon Story 1994 / ドイツ・ポルトガル / 100分 監督・脚本: ヴィム・ヴェンダース 音楽: ユルゲン・クニーパー, マドレデウス 出演: リュディガー・フォーグラー, パトリック・ボーショー, テレーザ・サルゲイロ
配信 DISCAS宅配のみ
2026年9月時点
Wine
Vinibio / Mica Nature 2022 Loureiro, Treixadura, Alvarinho, Arinto, Avesso A cooperative of four growers / No added SO2 Minho (Sousa), Portugal



