
曇った夕方。瓶は、テーブルの上に立っている。
持ち上げると、思ったより重い。ガラスはひんやりしていて、ラベルには Tombé du Ciel とある。空から落ちてきた、という意味だ。ここまでは、読めば分かる。
再生する。
誰かの手が、紙に詩を書いている。子どもが子どもだった頃、と。
カメラは、街の上を漂っていく。教会の塔のてっぺんに、コートを着た男が腰かけて、下を見ている。背中に、翼の影がうっすらとかかる。通りを歩く大人たちは、誰も気づかない。通りの子どもだけが、ふと、空を見上げる。
天使は、この街のすべてを知っている。誰が何を考えて地下鉄に揺られているか。この川がまだ名前を持たなかった頃のことも。けれど、コーヒーが熱いということを、知識としてしか知らない。
画面は、銀色のモノクロだ。
瓶を、テーブルに戻す。今夜は、こちらも少しだけ天使の側にいることにする。栓は、まだ抜かないでおく。

一杯の肖像
飲まずに分かることを、先に並べておく。
黒っぽいガラスの、飾り気のない瓶。光にかざしても、中の色はよく見えない。南フランスの赤。2018年の葡萄だから、瓶の中で、もう八年近くを過ごしている。
シラーが七割、カリニャンが三割。造り手は、フレデリック・リヴァトン。2004年、ピレネー山脈の東の裾にある小さな村、ラトゥール・ド・フランスに移り住み、そこで葡萄を有機で育てている。発酵は、葡萄についた野生の酵母にまかせる。樽の香りはつけない。濾過もしない。
セラーでは、ポンプでワインを吸い上げない。上から下へ、ワインが自分の重さで降りていくように造る。空から落ちてきた、という名前のとおりに。
ここまでは、ラベルと資料で分かる。天使が図書館で知ることができるのと、同じ種類のことだ。
味だけは、ここに書いても伝わらない。

なぜ、ベルリン・天使の詩にトンベ・デュ・シエルなのか
見ているだけでは、赤の味は分からない。
栓を抜かないまま — 天使の目で
天使は、ふたりいる。ダミエルとカシエル。
夕方、ふたりは車のショールームで落ち合って、その日に見たことを手帳から読み上げる。雨の中で、傘をたたんで、濡れるにまかせた女がいた。地下鉄の車掌が、駅の名前のかわりに「ティエラ・デル・フエゴ」と叫んだ。何でもない報告ばかりだ。何でもないことしか、書きとめられない。
図書館では、何百という人の頭の中の声が、ささやきのように重なっている。天使はその間を歩き、うなだれた男の肩に、そっと手を置く。男の考えが、少しだけ明るいほうへ向く。けれど、悲しみそのものを取り除くことはできない。
道路で、バイクの男が倒れている。ダミエルは、その頭を抱いて、耳元で囁く。男が好きだったはずの、ささやかなものの名前を、ひとつずつ。男は、それを自分の考えのように聞いている。
カシエルは、ビルの屋上に立つ若い男の隣にいる。すぐそばにいる。それでも、止めることはできない。
天使にできるのは、見ることと、聴くことと、そばにいることだけだ。
ダミエルは、サーカスのテントで、空中ブランコの女を見つける。マリオン。羽の作りものを背中につけて、宙を飛んでいる。一座は今夜で店じまいだ。トレーラーで独りになった彼女は、誰にも言わないことを考えている。ダミエルは、その隣に座っている。彼女には見えない。
屋台では、ピーター・フォークがコーヒーを買っている。誰もいない空間に向かって、話しかける。見えないけど、いるのは分かるよ、と。
瓶を、もう一度持ち上げる。さっきより、ガラスの冷たさがやわらいでいる。ラベルは、もう暗記するほど読んだ。重さも知っている。名前の意味も、品種も、造り手も知っている。
中身の味だけを、知らない。
鎧が落ちる — 注ぐ
ある朝、ダミエルは、壁のそばの地面で目を覚ます。
何かが、空から落ちてくる。頭に当たって、地面で鈍い音を立てる。鎧だ。頭に手をやると、指先に血がついている。舐めてみる。
味がある。
彼は、笑い出す。
世界に、色がついている。壁一面の落書きを見上げて、通りがかりの男に尋ねる。あれは何色か。これは赤。これは黄色。
いまだ。栓を抜く。
コルクが抜ける、小さく乾いた音。瓶を傾けると、ワインが、グラスへ落ちていく。空から落ちてきたものが、もう一度、落ちる。
グラスを、画面の光にかざす。深いガーネット。縁のほうだけ、ほんの少し煉瓦色がにじんでいる。これは赤だ、と言ってみる。
口に含む。まだ少しひんやりしている。ブルーベリーとブラックベリー、果実が先に来る。その奥から、鉄のような味がのぞく。舌の先に、指先を舐めたときのような金気が残る。
味がある、と思う。
ダミエルは、屋台で熱いコーヒーを買う。両手でカップを包む。ピーター・フォークが言っていたとおりだ。寒い日に、手をこすり合わせる。コーヒーと、タバコ。ひとつでもいいが、一緒にやると最高なんだ。
グラスと、画面。一緒にやると、たしかにいい。
温まってくる — 夜のバー
夜。ニック・ケイヴのバンドが、ライブハウスで演奏している。低い声が、床から響いてくる。マリオンは客席の中で、誰かを探すように、あたりを見回している。
グラスも、手の中で温まってきた。最初の果実の明るさが少し引いて、乾いた土と、黒胡椒の匂いがのぼってくる。果実は、ジャムになる手前の濃さになる。濾過をしていないぶん、舌の上に細かなざらつきが残る。上等な絹ではなく、洗いざらしの木綿の手ざわりだ。
ライブが終わって、隣のバー。カウンターに、ダミエルがいる。
マリオンが、彼のほうへ歩いてくる。先に口を開くのは、彼女のほうだ。
ここから先は、書かないでおく。
グラスには、もう冷たさが残っていない。土と、鉄と、黒い果実の余韻が、口の中に長くとどまる。天使だった頃の彼には、一度も知ることのできなかった重さだ。
ルーションの赤なら、ほかにもある。もっと濃くて、樽の香りをまとい、何年か寝かせてから開けるべき赤も。
それでも、この一本をこの映画の隣に置く。瓶の中で八年近くを過ごして、角がとれているからだ。栓を抜いたその瞬間から、もう応えてくれる。デキャンタで待たせる必要がない。世界に色がついた瞬間に開ける、という飲み方は、開けてすぐ飲める赤でないと成り立たない。
それに、この赤は、落ちることで造られている。ポンプで吸い上げず、重さにまかせて降ろす。グラスに注ぐときも、ワインはもう一度、落ちる。
待った分だけ、最初のひと口は重い。栓は、色がつくまで抜かないでほしい。

ラトゥール・ド・フランスを旅する
畑の真ん中に立って、上を見る。
ベルリンの空は、灰色だった。ここの空は、濃い青だ。年に三百日は晴れるといわれる。雲がないから、昼の光は乾いていて、影がくっきりと落ちる。
北西の山から、風が吹き下ろしてくる。トラモンタンヌと呼ばれる、乾いた強い風だ。葉が一斉に裏返って、ざわめく。湿気がとどまらないから、葡萄は病気になりにくい。そのかわり、実は小さく、少なくしかならない。この土地の赤の濃さは、空と風がつくっている。
村の名前は、「フランスの塔」という意味だ。1659年まで、このあたりはフランスとスペインの国境だった。塔は、その国境を見張るために建てられた。
見張り塔から見えるのは、地上に引かれた線だ。空の上から見れば、そんな線はどこにもない。壁の上を自由に越えていった天使たちと同じように。
リヴァトンは、この村に降り立って、ここに根を下ろした。上から眺めるのではなく、畑の土を踏んで、風の強い日も、葡萄のそばにいる。
原題は、Der Himmel über Berlin。ベルリンの空。この一本は、ラトゥールの空の下から来た。

この映画の夜に
曇った日の夕方から、観はじめるのがいい。窓の外が、画面と同じ灰色のうちに。
瓶は、少しひんやりしているくらいで。十四度から十六度。暖かい季節なら、観る三十分前に冷蔵庫に入れておく。南の赤だけれど、冷たさも感覚のうちだ。
グラスは、いつものもので構わない。この映画に限っては、上等なグラスより、ふだんのグラスのほうが正しい。屋台のコーヒーの紙カップと同じだ。
栓抜きとグラスは、手の届くところに置いておく。モノクロのあいだは、瓶を持ち上げたり、ラベルを眺めたりするだけにする。世界に色がついたら、栓を抜く。そこからは、夜のバーの場面に向けて、ゆっくり温まっていく味を追う。
食べるものは、屋台の味で。焼いたソーセージにマスタード。カレー粉とケチャップをかけた、カレーヴルスト風。黒胡椒のきいた煮込み。鉄と黒胡椒の赤には、脂と塩のあるものが合う。
観るのは、ひとりがいい。天使のように、誰にも気づかれずに。
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いつまでも、ではなく。 いま、いま、いま。
地上で、彼は綱を握っている。 その重さを、どの天使も知らない。
グラスの赤の味を、 どの天使も知らない。
Film
ベルリン・天使の詩 / Der Himmel über Berlin (Wings of Desire) 1987 / 西ドイツ・フランス / 128分 監督: ヴィム・ヴェンダース 脚本: ヴィム・ヴェンダース, ペーター・ハントケ 撮影: アンリ・アルカン 音楽: ユルゲン・クニーパー(劇中ライブ: ニック・ケイヴ&ザ・バッド・シーズ) 出演: ブルーノ・ガンツ, ソルヴェイグ・ドマルタン, オットー・ザンダー, クルト・ボイス, ピーター・フォーク 受賞: カンヌ国際映画祭 監督賞
配信
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Wine
Domaine Rivaton / Tombé du Ciel 2018 Syrah 70%, Carignan 30% 有機栽培 / 野生酵母 / 無濾過 Latour-de-France, Roussillon, France



