
言葉がひとつもわからない場所で、誰かにグラスを差し出されたことがあるだろうか。
何を言われているのかは、わからない。でも、飲めと言っているのは、わかる。
飲む。喉の奥が、熱くなる。相手が笑う。
それで、少しだけ、わかった気になる。
冬のルーマニア。夜の道は凍って、ところどころで泥に変わっている。
パリから来た青年ステファンが、くるぶしまで泥に沈めながら歩いている。ポケットには、カセットテープが一本。死んだ父親が、何度も繰り返し聴いていた、ロマの女の歌だ。
歌い手の名前は、ノラ・ルカ。それ以外は、何も知らない。
道の向こうから、老人がひとり、わめきながらやってくる。

一杯の肖像
冷えたボトルを、テーブルに置く。
栓を抜いて、注ぐ。色は、明るいルビー。赤ワインにしては、光がよく通る。グラスの向こうに、指の影が透けて見える。
鼻を寄せる。まず、潰したばかりの赤い実。ラズベリー、野いちご、さくらんぼ。その奥に、ほんの少し、黒胡椒と乾いた土の匂い。
一口。
冷たくて、みずみずしい。果実が、舌の上で弾ける。渋みはやわらかく、すぐに引いていく。飲みこんだあと、酸が口のなかを明るく洗って、もう一口が欲しくなる。
中身は、いくつもの土地の寄り合いだ。ボジョレーのガメイが4割。南のサンソー、グルナッシュ、シラー、カリニャン。そこに、白葡萄のシャルドネが15%混ざる。
赤ワインのなかに、白葡萄。それが、この色の明るさになる。南の葡萄の熱を、最後まで重くさせない。
造ったのは、パトリック・ブージュ。オーヴェルニュのドメーヌ、ラ・ボエムの主だ。
名前は、Môl。モル、と読む。
ロマの言葉で、赤ワインのことだ。

なぜ、ガッジョ・ディーロにMôlなのか
言葉は、辞書では覚えられない。酌み交わした相手から、もらうものだ。
凍える道 — 冷たいうちに
老人の名前は、イジドール。息子が警察に連れていかれたと、酒場を追い出されて、夜道に向かって怒鳴っている。
ステファンは、テープの歌い手の名前を口にする。ノラ・ルカを知らないか、と。
イジドールには、ほとんど何も通じない。それでも、この若いのを気に入る。酒を差し出す。二人で、飲む。
目が覚めると、ステファンはロマの村にいる。
グラスは、まだ冷たい。果実はきゅっと締まっていて、酸が先に立つ。凍った夜道の冷たさが、口のなかにある。
村人たちは、よそ者を歓迎しない。子どもたちが、後ろをついて歩いて囃したてる。ガッジョ・ディーロ。ガッジョ・ディーロ。
ガッジョは、ロマではない者。ディーロは、頭のおかしい。
男たちは、面白がって彼に言葉を教える。ステファンが大真面目に繰り返すと、全員が腹を抱えて笑う。教わったのは、口にするのもはばかられる悪態だった。
それでも、彼は繰り返す。
言葉は、辞書では覚えられない。笑われながら、酌み交わした相手から、ひとつずつもらうものだ。
宴の夜 — ぬるくなってくる
ステファンは、イジドールの家に住みつく。冬が、少しずつゆるんでいく。
村には、いつも音楽がある。ヴァイオリンが、ツィンバロムが、手拍子が、録音ではなく、目の前で鳴っている。婚礼の夜は長い。誰かが歌いはじめると、全員がそこへ入っていく。金歯が、火の明かりで光る。
ステファンが、輪のなかで踊っている。
グラスも、このころにはぬるくなっている。冷たさがほどけて、果実がふくらむ。胡椒の気配が、少しだけ前に出てくる。南の葡萄の、日なたの熱。
それでも、重くならない。白葡萄の明るさが、グラスの芯に残っていて、酸が次の一口を呼ぶ。宴の速度で、飲める。
村には、サビーナという女がいる。夫と別れていて、フランス語が話せる。はじめは、ステファンにいちばんとげとげしかった。
やがて彼女は、彼の通訳になる。二人は車で、村から村へ、歌い手を訪ねてまわる。ステファンは録音機を回す。サビーナが、歌の意味を訳してくれる。
ある晩、ステファンは村の男たちに、ロマの言葉で冗談を言う。
今度は、みんなが、彼と一緒に笑う。
ブージュが「モル」という言葉をもらったのも、同じような場所だった。収穫の日、隣の列で葡萄を摘んでいたロマの人たちから。ガッジョが旅の民から言葉をもらって、それを、自分のいちばん大事なものに付けた。
ドメーヌの名前は、ラ・ボエム。ボヘミアン、という言葉は、もともと西欧で、ボヘミアから来たと見なされたロマを呼んだ名前だった。
焼かれた村 — 底のほう
イジドールの息子、アドリアニが、刑務所から帰ってくる。
イジドールは喜ぶ。村じゅうが、彼を迎える。
けれど、アドリアニは町の酒場で、人を殺めてしまう。
夜、怒った男たちが村へ押し寄せる。家々に火が放たれる。アドリアニは、燃える家から出てこない。
ステファンとサビーナが旅から戻ったとき、村は、焼け跡になっている。
グラスは、底のほうに来ている。温度は、部屋と同じ。果実はいちばん丸くなって、土の匂いが少し濃い。
ひと口だけ、残しておく。
ステファンは車を走らせる。映画のはじめに歩いていた、あの道へ。道ばたの石の道標の前で、車を降りる。
旅のあいだに集めた録音テープを、一本ずつ、道標の石に叩きつける。割れたテープを、土に埋める。
ウォッカの瓶を開けて、ひと口飲む。残りを、埋めたところに注ぐ。瓶を、その上に置く。
そして、踊りはじめる。イジドールが、弔いの席で踊っていた、あの踊りを。
言葉では、何も言わない。言葉なら、もうもらっている。
残しておいたひと口を、ここで飲む。
最初の冷たさは、もうない。果実はやわらかく、胡椒と土がかすかに残る。それでも、飲みこんだあと、酸が口のなかを明るくする。
赤ワインを指す言葉なら、どこの国にもある。それでもこの一本をこの映画の隣に置くのは、Môlという名前が、ガッジョが旅の民からもらった言葉だからだ。そしてその言葉が、意味を知るより先に、喉の熱と、相手の笑い声で伝わる味をしているからだ。
車の後部座席で、眠っていたサビーナが目を覚ます。
踊るステファンを見て、彼女は、少しだけ笑う。

畑から畑へ、そして火山の家へ
パトリック・ブージュは、IBMのプログラマーだった。
バイオ研究のシステムを組む仕事をしながら、あるとき会社に願い出る。午前中だけ働く契約社員にしてほしい。空いた午後で、1.5ヘクタールの畑を耕した。2004年、ドメーヌを構える。やがて、畑へ完全に移った。
いちばん安定した椅子を、自分から降りた人だ。テープと録音機だけを持って、パリを出たステファンのように。
本拠地は、オーヴェルニュ。フランスのほぼまんなか、火山が眠る高地だ。自分の畑は、標高500メートルのコランの村のあたりに散らばっている。足もとは、玄武岩。火山の、黒い土。
Môlの葡萄は、それよりもずっと遠くからやってくる。
北は、ボジョレー。花崗岩の丘の、ガメイ。そこから南へ下って、日差しの強い土地の、サンソー、グルナッシュ、シラー、カリニャン。どの畑も、ブージュが信頼する友人たちが、有機で育てている。
その年に良かった葡萄を、畑から畑へ、訪ねて集める。
ステファンとサビーナが、村から村へ、歌い手を訪ねたように。
集まった葡萄は、火山の土地の造り手のもとで、一本になる。北の果実の明るさと、南の日なたの熱。それを、白葡萄の酸がまとめている。
地図に線を引けば、それがそのまま、このワインの旅程になる。

この映画の夜に
冬の夜がいい。
夕方、玉ねぎとパプリカを炒めて、ソーセージと一緒に鍋で煮込む。時間があれば、キャベツで肉を巻いた、ルーマニアのサルマーレを。パンを切って、塩を小皿に出しておく。
ボトルは、観はじめる30分前に冷蔵庫から出す。13〜14℃くらい。少しひんやりしている、というところから始める。
グラスは、なんでもいい。台所のタンブラーでいい。この映画で、酒は、きれいな器に注がれていない。
誰かと観るなら、相手のグラスから先に注ぐ。
再生する。
凍える夜道のあいだに、冷たい一口を。赤い実と、先に立つ酸。
宴の場面が来るころ、グラスはぬるくなっている。果実がふくらみ、胡椒の気配が出てくる。煮込みのパプリカと、ちょうど同じ温度になる。
グラスの底に、ひと口だけ、残しておく。
道標の前で、ステファンが踊りはじめたら、それを飲む。
.
画面が暗くなる。
喉の奥が、まだ少し、熱い。
モル、と言ってみる。
意味は、もう知っている。
Film
ガッジョ・ディーロ / Gadjo dilo 1997 / フランス・ルーマニア / 100分 監督・脚本: トニー・ガトリフ 出演: ロマン・デュリス, ローナ・ハートナー, イジドール・サーバン 受賞: ロカルノ国際映画祭 銀豹賞など計5部門
配信 DISCAS宅配のみ
2026年9月時点
Wine
Domaine La Bohème / Môl 2021 Gamay 40%(ボジョレー), Cinsault 20%, Syrah/Grenache/Carignan 25%, Chardonnay 15% 自然派醸造 / 各地の友人の有機葡萄によるネゴス・キュヴェ Auvergne, France



