
観終わって、部屋の明かりをつける。
壁が白い。何も描かれていない。さっきまで見ていた一間には、チューリップと青い鳥と、雪の上に咲く夏の花があった。
窓の外は雨だ。ノバスコシアの灰色ほどではないけれど、今夜の部屋も、色が少ない。
思い出すのは、最初の場面の背中だ。灰緑の草原と鈍色の海のあいだを、小さな人がひとり、砂利道を歩いていく。こわばった足で、少し体を傾けて。手には「家政婦募集」の貼り紙。行き先は、電気も水道もない、魚売りの男の小さな家。
あの家の中は、最初、ほとんど色がなかった。
ボトルを出す。ラベルには、誰かの手が描いた絵。
注ぐ。
白い部屋に、最初の一色が置かれる。
モードが壁に葉っぱを一枚描いたときも、きっとこのくらいの大きさだった。

一杯の肖像
グラスを窓にかざしてみる。赤は濃すぎない。向こうの雨粒が、少し透けて見える。
鼻を近づけると、チェリーと、野いちご。摘んだばかりの、甘酸っぱい赤い実。その奥に、雨の日の土のにおいが少し。
ひと口めは、人懐こい。果実がまっすぐ来て、酸がそれを明るく保つ。ムールヴェードル主体と聞いて身構えていたなら、肩の力が抜ける。
でも、飲み込んだあとに、何かが残る。舌の両脇に、控えめな渋み。喉の奥に、白胡椒のような小さな刺激。人懐こいだけでは終わらない。ちゃんと骨がある。
素朴だが、幼稚ではない。
このRougeは、セラーの「迷子たち」でできている。造り手のアントン・ファン・クロッパーが、どの樽にも収まりきらなかったワインをそう呼ぶ。澱の上に澄んだ上澄みは「宇宙のワイン」。Rougeは、その迷子たちと宇宙のワインを寄せ集めた赤だ。
寄せ集めだから、同じものは二度とできない。来年の迷子は、来年の迷子だ。この2022年の赤は、この年のセラーにしかなかった。

なぜ、この映画にこのワインなのか
居場所のなかったものが、いちばん明るいものになる。
最初の一筆
モードは美術学校に行っていない。遠近法を知らない。こわばった指で小さな筆を握り、ペンキの缶のふちで穂先をしごいて、壁に葉っぱを描く。
描いていいかどうかは、誰にも聞かない。雪の上に夏の花を咲かせる。牛の首には鈴ではなく花輪をかける。正しいかどうかより先に、うれしいかどうかがある。
アントンも、測らない人だ。醸造学を最優秀で修めたのに、蔵を建てると糖度計を置いた。収穫期には毎日10キロ近いブドウを食べて、その年のブドウが何になりたがっているかを、舌で聞く。温度も管理しない。何も足さない。
注いだばかりのグラスは、まだ少し冷たくて、香りも控えめだ。描きはじめの壁に、葉っぱが一枚あるだけのように。
急がなくていい。モードの壁も、一日では埋まらなかった。
窓越しの、五セント
窓は、モードの定位置だった。鳥が横切る。蜂が飛ぶ。季節が、窓の外だけで入れ替わっていく。人生の全部がもう額縁に入ってる、と彼女はそういう意味のことを言う。
その窓越しに、絵葉書を売る。一枚、五セント。車を止めた人が、小さな絵を一枚買っていく。
グラスを手で包んでしばらく置くと、少しずつ温まって、果実が開いてくる。チェリーが熟れて、野いちごが甘くなる。部屋の空気まで、少し赤くなる。
「何もできない子」と言われていた人の絵が、知らない誰かの手に渡っていく。どの樽にも収まらなかった迷子たちが、ひとつの瓶に入って、海の向こうの窓辺に届く。居場所のなかったものが、どこかの誰かのいちばん明るいものになる。
犬と鶏のつぎ
エベレットは、ぶっきらぼうな男だ。魚を売り、薪を割り、口数は少ない。住み込みで来たモードに、この家での順番を言い渡す。いちばん上が自分で、犬と鶏がそのつぎ、そのあとにお前だ、と。
手押し車に魚を積んで、道を行く。モードはときどき、その後ろに乗る。ぶつかりながら、言い返しながら、ふたりはあの小さな家で暮らしつづけた。
グラスがさらに温まると、はじめの人懐こさの下から、骨が前に出てくる。土のにおい。控えめな渋み。白胡椒。明るい果実に、ぶっきらぼうなものが寄り添っている。
明るいだけの赤なら、ほかにもある。この一本をこの映画の隣に置くのは、人懐こい果実のあとに、ぶっきらぼうな骨が残って、それでも二つが離れないからだ。
モードの絵の明るさは、エベレットの家の暗さの中で描かれた。このワインの明るさも、骨があるから、ただの甘さにならない。

バスケット・レンジ — 森の尾根で、ブドウを食べる人
アデレードの市街から東へ、車で30分ほど坂を上る。道が森に入る。ユーカリの木立の奥に、霧がたまっている。濡れた葉のにおいがする。
バスケット・レンジは、アデレード・ヒルズの尾根にある小さな集落だ。2002年、アントンは妻のサリーと娘のルーシーとここに来て、6ヘクタールの土地にブドウを植えるところから始めた。ワイナリーの名前は、その娘からもらった。
収穫の朝、アントンは畑を歩きながらブドウを摘んで、口に入れる。一日に10キロ近く。甘いか、酸っぱいか、皮はどうか。数字の代わりに、舌で決める。畑に除草剤は撒かない。蔵では何も足さない。
以来この尾根には、同じように手で造る人たちが集まって、小さな家と小さな蔵が並ぶようになった。誰かの台所が試飲室になるような距離感だ。ラベルはいつも、誰かの手描きの絵から生まれる。アントン自身が描くこともあれば、家族や仲間の絵が載ることもある。
ノバスコシアの海辺の一間と、南オーストラリアの森の尾根。どちらも、世界の中心から見れば端っこだ。でも、端っこの小さな家から、絵は海を越えた。モードの家はいま、ハリファックスのノバスコシア美術館の中に、絵ごとそっくり保存されている。
尾根の小さな蔵から出たボトルも、いま、あなたの窓辺にある。

この映画の夜に
観る前に、ボトルを窓辺に30分置いておく。冷蔵庫ほどは冷やさない、14℃くらい。何も足していない赤なので、少しひんやりしているほうが輪郭が出る。
グラスは小ぶりでいい。モードの家に、大きな道具はひとつもなかった。
皿は、エベレットの商売に寄せて魚にする。白身魚のフライ。茹でたジャガイモにバター。クラムチャウダーでもいい。かしこまった皿より、平日の皿が合う。
この映画は、観ながら飲んでいい。季節がゆっくり巡る映画で、窓の外の雪が解けていく速さと、手の中のグラスが温まっていく速さが、ちょうど同じくらいだ。
はじめは冷たく控えめで、途中から果実が開いて、終わりのころには骨が出てくる。映画が終わるころ、グラスの中にもひとつの季節が過ぎている。
冬の名残の雨の夜、部屋の色数が減っているときに、いちばん効く。
.
エンドロールが終わる。
グラスの底に、赤い輪がひとつ残っている。
窓辺の、いちばん小さな絵だ。
雨は、もう上がっている。
Film
しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス / Maudie 2016 / カナダ・アイルランド / 116分 監督: アシュリング・ウォルシュ 出演: サリー・ホーキンス, イーサン・ホーク 音楽: マイケル・ティミンズ(カウボーイ・ジャンキーズ)
配信
見放題 U-NEXT / Lemino / FOD Channel Amazon Channel / FOD
レンタル Prime Video / Apple TV Store
2026年9月時点
Wine
Lucy Margaux / Rouge 2022 Mourvèdre 45%, Merlot 35%, Syrah 15%, Pinot Noir & Chardonnay 少量 野生酵母 / 無補酸・無補糖 / 無濾過・無清澄 / SO2無添加 Basket Range, Adelaide Hills, Australia



