
夕方、窓のそばで栓を抜く。
注いだ赤は、思ったより淡い。グラスを窓にかざすと、向かいの建物の灯りが、赤く透けて見える。
一口。少しひんやりしている。苺と、ザクロの酸っぱさ。その奥を、ミントがかすかに通り過ぎる。
グラスを置いて、映画を始める。
1,960年代のテキサス。一通の電報が、家に届く。読んだ母が、声にならない声をあげる。十九歳の次男、R.L.が死んだという報せだ。
それから何十年もたった、ヒューストン。ガラス張りの高層ビルで、長男のジャックは建築家として働いている。今日は、弟の命日だ。
朝、ジャックは年老いた父に電話をかけて、短く謝った。
エレベーターが、ガラスの中を昇っていく。窓の外に、木は一本も見えない。
グラスを、もう一度光にかざす。赤の向こうで、何かの影が揺れている。
テキサスの、庭の大きな木の影だ。

一杯の肖像
グラスを、指の前にかざしてみる。赤の向こうに、自分の指が透けて見える。
香りは、赤い果実から来る。苺、さくらんぼ、ザクロ。その下に、ミントと、スパイスがかすかにある。挽いた粉ではなく、丁子やシナモンの枝をそのまま置いたような、形のある香りだ。
口に含むと、果実がはじける。明るくて、みずみずしい。軽いのに、薄くない。飲みこんだあとに、さくらんぼの種をかんだときのような、小さな苦みが残る。
造ったのは、ウィリアム・ダウニー。ブルゴーニュで修業し、オーストラリアに戻ってきた造り手だ。彼は、こう言っている。最高のワインではなく、いちばん本当のワインを造りたい、と。
Cathedral は、ヴィクトリアの冷涼な畑、アッパー・ゴールバーンなどの葡萄から造る。ステンレスタンクと古い樽で仕込み、新しい樽の香りはつけない。何年も寝かせて、ありがたく取っておくためのワインではない。今、この果実を飲むための一本だ。

なぜ、ツリー・オブ・ライフにカテドラル ピノ・ノワールなのか
偉大であるより、本当であること。
芝生の上で — 冷たいうちに
母の声が、囁く。人の生き方には、二つの道がある。ひとつは自然の道。自分を満たすことだけを求め、人を従わせようとする。もうひとつは恵みの道。人に譲り、侮られても、それを受け入れる。
少年ジャックの目に、母は恵みそのものに見える。芝生の上で、母は子どもたちを追いかけて笑う。スプリンクラーの水が、光のなかで散る。一匹の蝶が、母の差し出した手にとまる。
夏の夕方、消毒の車が白い霧をまいて通り過ぎる。子どもたちは、その霧のなかへ走りこんでいく。
父が出張で家を空けると、家じゅうの空気がゆるむ。母は子どもたちと、裸足で庭を駆けまわる。愛さなければ、人生はあっというまに過ぎてしまう。母は、そう言う。
グラスはまだ冷たい。苺とザクロが、まっすぐに来る。ミントが、刈ったばかりの芝の匂いのように、鼻の奥を抜けていく。
父の手 — 温まってくる
父は、厳しい。食卓では、許しがなければ口をきいてはいけない。息子たちに拳の握り方を教え、殴ってこい、と自分の頬を差し出す。
けれど父には、別の顔がある。若いころ、偉大な音楽家になりたかったのだ。日曜の教会で、父はバッハをオルガンで弾く。家ではピアノを弾き、次男のR.L.がギターで合わせる。ジャックは、それを窓の外から見ている。
ジャックの中で、何かが濁っていく。父が車の下にもぐって作業をしている。車体を支えているのは、ジャッキひとつだ。ジャックはそのまわりを、ゆっくりと歩く。神さま、と心のなかで言う。
別の日、ジャックはエアガンで、R.L.の指先を撃つ。泣きながら木の板を差し出して、これで僕を叩け、と言う。R.L.は板を受け取らない。ただ、兄を許す。
父さん、母さん。二人は、いつも僕の中で取っ組み合っている。ジャックは、そう打ち明ける。
グラスが、手のひらの温度に近づいてきた。さくらんぼの果実がふくらみ、下に隠れていた丁子とシナモンが、はっきりと立ちのぼる。明るいだけのワインではなかった。はじめから、ちゃんと骨があった。
本当のもの — 底のほう
父の勤める工場が閉鎖になる。発明の特許も、裁判で失った。一家は、この家を出ていくことになる。
荷物をまとめた家で、父はジャックに語りかける。偉大な人間だから愛されたかった。大物になりたかった。でも、自分は何者でもなかった。見てごらん、まわりの木も、鳥も、こんなに輝いている。自分はそれを恥じるように生きて、その輝きに気づきもしなかった、と。
父は、お前は母さんに似ている、と言う。ジャックは首をふる。僕は、父さんに似ている。
車が走りだす。後ろの窓のなかで、庭の大きな木が、だんだん小さくなっていく。
大人のジャックは、どこまでも続く浜辺を歩いている。そこに、みんながいる。若い父と母。子どものころの自分。そして、R.L.。母は、光のなかで両手をひらく。あなたに、この子を渡します、と。
グラスの底のワインは、いちばん温かい。苺の華やかさは引いて、さくらんぼの種のような、小さな苦みが舌に残る。ミントだけが、まだ静かに通っている。ひと口、ここまでとっておくといい。
淡いピノ・ノワールなら、ほかにもある。この一本をこの映画の隣に置くのは、造り手が、偉大であることより、本当であることを選んだからだ。父が一生をかけて追いかけ、最後に手放したものを、このワインは最初から求めていない。

ヴィクトリアを旅する
ウィリアム・ダウニーは、ブルゴーニュの蔵で修業を積んだ。そこで身につけたものを持って、オーストラリアに帰ってきた。いまは、ヴィクトリア州南東のジップスランドで、妻のレイチェルとともに畑と暮らしている。
Cathedral の葡萄は、メルボルンから北東へ向かった、アッパー・ゴールバーンなどの冷涼な畑から来る。名前は、葡萄を買っていた畑のそばにそびえる、カテドラル山脈から取られた。
大聖堂という名前は、偶然の地名だ。けれど、父が日曜ごとにオルガンを弾いたのも、教会だった。父は、その音楽で偉大になろうとした。ダウニーは、偉大なワインを目指さない。いちばん本当のワインを目指す。
大聖堂という同じ言葉の下で、二人は反対のほうを見ている。そして映画の終わり近くで、父はようやく、ダウニーと同じほうを向く。木と、鳥と、光のほうを。
グラスを、もう一度光にかざす。向こうが透けて見える。飾らない赤だ。

この映画の夜に
映画を始める三十分ほど前に、冷蔵庫から瓶を出しておく。14℃くらいの、ほんの少しひんやりしたところから飲みはじめると、温まっていく変化がよくわかる。
グラスは、大きめのボウルのものを。注いだら、まず窓の光にかざして、向こうが透けるのを見てから飲む。
オーブンでは、タイムをのせた鶏を焼いておく。きのこのソテーと、良いパン。さくらんぼの赤い果実とスパイスに、焼いた皮の香ばしさがよく合う。
映画は、138分。宇宙のはじまりも、恐竜も、ゆっくりと過ぎていく。急がなくていい。グラスが温まるのと同じ速さで、少年のジャックも大きくなっていく。
浜辺の場面のために、ひと口だけ残しておく。
これは、何年も寝かせておくワインではない。今夜のうちに、開けてしまっていい。
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グラスを窓辺に置いたまま、少しだけ考える。
明日、父に電話をかけてみようか、と。
空のグラスに、外の光が透けている。
Film
ツリー・オブ・ライフ / The Tree of Life 2011 / United States / 138分 監督・脚本: テレンス・マリック 撮影: エマニュエル・ルベツキ 音楽: アレクサンドル・デスプラ ほか 出演: ブラッド・ピット, ジェシカ・チャステイン, ショーン・ペン, ハンター・マクラケン 受賞: 第64回カンヌ国際映画祭 パルム・ドール
配信
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2026年9月時点 · JustWatch
Wine
William Downie / Cathedral Pinot Noir 2023 Pinot Noir 100% / 約13.5% ステンレスタンクと古樽 / 新樽不使用 Upper Goulburn ほか, Victoria, Australia






