
目線が低い。大人が同じ画面に入るには、膝を折らなければならない。
車の後部座席から、ネリーが運転席の母に菓子を運ぶ。ひとつ口に入れて、次にジュースのストローを差し出す。手が届くのは、そこまでだ。
行き先は、亡くなった祖母の家。片付けの途中で、母は何も言わずに先に帰ってしまう。
残されたネリーは、裏の森へ入る。枝を立てかけて小屋を建てている、同じ背丈の少女がいる。名前を聞くと、母と同じ名前が返ってくる。
その先は、ここには書かない。
セリーヌ・シアマの『秘密の森の、その向こう』は、73分の短い映画だ。音楽はほとんど鳴らず、聞こえるのは落ち葉を踏む音と、子どもたちの短い声。秋の色はあるのに、燃え上がらない。部屋の明かりをつけても、目線はしばらく低いままでいる。
その高さのまま注げる赤が、アデレード・ヒルズの丘にある。少し冷やして飲む、明るいピノ・ノワールだ。

一杯の肖像
1978年、フィリップ・ブロデリックは、アデレード・ヒルズのバスケット・レンジに土地を買った。急な斜面に、最初のブドウを植えたのは1980年。
ルイとショルトの兄弟は、その土地で生まれた。
2000年、一家は丘の上の隣の土地へ移る。もとは果樹園だった斜面に、家族でブドウを植え直した。兄が八つ、弟が五つになる年だ。二人は畑を手伝いながら育ち、2016年、弟のショルトが醸造を始める。
Banksia Pinot Noir 2022 は、その自社畑のピノ・ノワールだけで造られている。北向きと南向き、陽の当たり方がちがう二つの区画から、酸が残るうちに摘んだ。一部を房ごと仕込み、古い樽で八ヶ月。
グラスに注ぐと、色は明るい。最初に口を起こすのは酸で、房ごと仕込んだ部分が香りを持ち上げ、その下に旨味を敷く。タンニンは細く、きれいに揃っている。
香りを果物の名前で言い当てるより、明るさと、旨味と、酸の長さで覚えておきたい一本だ。

なぜ、『秘密の森の、その向こう』に、Banksia Pinot Noir 2022 なのか
子どものころに植わった樹から、大人になった子が一杯を造る。
色と色
祖母の家では、夕方になると窓の外の光が引いて、室内灯の金色が残る。撮影のクレア・マトンは、この秋を押し葉の標本のように扱った。暖かい色は置くが、燃え上がらせない。夜は薄い青で、子どもの顔に濃い影を落とさない。
Banksia の赤も、画面の主役を取りにいかない。燃える葉の色というより、落ち葉の下に残った実の色だ。新しい樽の香りを被せていないぶん、グラスには明るさがそのまま残る。室内灯の下で、ちょうどいい濃さに見える。
感覚と感覚
台所で、二人はパンケーキを焼く。卵を割り、粉を混ぜ、フライパンの上で生地を返す。大人の手は、どこにも出てこない。
音楽がほとんどない映画だ。終わり近く、ネリーがヘッドホンを貸して、「未来の音楽」を聴かせる。そのあと、二人が湖へ漕ぎ出すところで、はじめて歌が画面いっぱいに流れる。静かな時間が長かったぶん、それまでに聞いた葉の音や、粉を混ぜる音が、あとから耳に残っている。
このピノも、声を張らない。先に立つのは酸で、香りは明るく、旨味は下のほうで静かに支える。少し冷やすと、霜が降りる手前の、秋の夕方の温度になる。飲み込んだあと、口のなかがすっと澄んで、次のひと口まで静かに待てる。
物語と物語
シアマは、この映画に過去へ運ぶ機械を置かなかった。森の奥に扉もない。ネリーは小道を歩いて、同じ年の母に会うだけだ。家は二軒あるはずなのに、壁紙は古びていない。時代の差を消して、二人が同じ高さで向き合う時間のほうを残した。
ブロデリック家の畑にも、同じ時間の重なりがある。いまの区画を植えたのは、兄弟がまだ子どもだったころだ。兄は、ネリーと同じ八つになる年だった。その斜面で手伝いながら育った子が、大人になって、同じ樹の実でワインを造っている。
北の斜面と南の斜面が、一本の瓶のなかで揃う。子どもの背丈で歩いた畑を、大人の手でもう一度歩く。同じ家をもう一度歩く映画に、この赤を置きたい理由は、そこにある。

バスケット・レンジを旅する
アデレード・ヒルズのなかでも、バスケット・レンジの斜面は急だ。かつてはりんごとさくらんぼの果樹園が並んだ丘で、いまも古い果樹の名残と、手を入れていない茂みが、畑のあいだに残っている。
もしこの丘を歩いたら、足もとで最初に気づくのは土の色だろう。赤い粘土と青い粘土が古い砂岩の上に重なり、ところどころに鉄分を含んだ石が混じる。標高はおよそ450メートル。同じ斜面でも、陽の向きで乾き方と冷え方が変わる。
ブロデリック家の区画は、そのちがいをそのまま抱えている。北向きは陽を受け、南向きは涼しい。ブドウは有機で育て、ワインはすべて敷地のなかで造る。畑も醸造所も、一家の暮らす土地のなかに収まっている。
映画の森とこの丘を、地図の上で結ぶつもりはない。重なるのは景色より、子どものころに歩いた場所へ、大人になって戻ってくるという時間の形のほうだ。

この映画の夜に
温度: 冷蔵庫に三十分ほど入れて、ひんやりする手前で出す。冷やしすぎると酸だけが尖る。温度が少しずつ上がって、香りが開いていくのを待つ。
グラス: 小ぶりのものでいい。大きなボウルは、この背丈には広すぎる。
食事: 脂の少ない焼きもの、塩気のやさしいチーズ、残ったパン。台所にあるもので、手早く整える夜が似合う。
タイミング: 73分の映画は、夕食の前にちょうど収まる。部屋の明かりを戻したら、最初のひと口は料理より先に。
話すこと: 親と同じ背丈で会えたら、何を話したか。八つのころに住んでいた家の、台所の位置。答えは出さなくていい。
.
家は、まだ同じだ。壁紙も、古びていない。
名前を呼ぶと、同じ高さで返事がある。
赤は、いまの温度のまま。
Film
秘密の森の、その向こう / Petite Maman 2021 / フランス / 73分(日本公開 2022-09-23) 監督・脚本: セリーヌ・シアマ 撮影: クレア・マトン 音楽: ジャン=バティスト・ド・ロビエ 出演: ジョセフィーヌ・サンス, ガブリエル・サンス, ニナ・ミュリス, ステファン・ヴァルペンヌ, マルゴ・アバスカル
配信
見放題 Prime Video / Hulu / U-NEXT / Amazon Prime Video with Ads ほか
レンタル Apple TV Store / Google Play Movies / FOD
2026年9月時点
Wine
Basket Range Wines / Banksia Pinot Noir 2022 ピノ・ノワール 100%(777 / MV6) 自社畑の北向きと南向き、一部全房、古樽8ヶ月 Basket Range, Adelaide Hills





