
赤いサーブのカセットデッキから、女の声が流れてくる。チェーホフ『ワーニャ伯父さん』の台詞を、抑揚をつけずに読んでいく。ワーニャの番が来ると、声は黙る。テープには、その分だけ空白が録ってある。
ハンドルを握る家福悠介が、その空白に台詞を返す。声の主は、妻の音。台詞を覚えるための、二人だけの習慣だった。
音が亡くなって二年。広島の演劇祭に招かれた家福は、愛車の運転を他人に任せることになる。運転手の渡利みさきは、ほとんど口をきかない。後部座席で、家福は同じテープを流しつづける。みさきの運転は、走っていることを忘れるほど滑らかだ。
濱口竜介の三時間の映画は、その多くを、この車内で過ごす。タイトルが出るのは、始まって四十分ほど経ってからだ。
閉めきった車のなかで、時間をかけて、何かが少しずつほどけていく。その三時間と並んで、ゆっくり開いていく赤がある。

一杯の肖像
中野雄揮は京都の出身で、レストランでソムリエをしてから、畑の側へ回った。いまはニュージーランド南島の北端、ネルソンのアッパー・ムーテレに蔵を構え、ピノ・ノワールを軸に、年ごとに組み合わせと仕込みを変えている。
Casablanca 2021 は、ピノ・ノワールが7割。残りはメルローとマルベックがほぼ半分ずつで、そこにヴィオニエとソーヴィニヨン・ブランがひとしずくずつ入る。ピノは皮と一緒に三十一日。ほかの葡萄は、まとめて一緒に醸す。それを素焼きの甕、アンフォラに移して、九か月。濾過も清澄もせず、何も足さない。
栓を抜いてすぐは、香りがまだ控えめだ。黒い果実の気配が、グラスの奥にとどまっている。十分、二十分と置くうちに、熟したダークチェリーとブラックベリー、カシスが上がってきて、その端にタイムのような青い香りがのぞく。暗い果実の縁に、明るさが残っている。
口に含むと、骨格はしっかりしているのに、舌ざわりは滑らかだ。マルベックが土っぽい暗さを足し、メルローがわずかな甘みを添える。後半に乾いたミネラルと、だしのような旨味が来て、長く引いていく。

なぜ、『ドライブ・マイ・カー』に、Casablanca 2021 なのか
空白に、声を返す。
抑揚のない声
家福の稽古では、俳優たちはまず台本を棒読みする。感情をのせず、同じ台詞を何度も繰り返す。意味は、繰り返すうちに体のほうへ落ちていく。車のテープの音の声も、同じ読み方をしている。
アンフォラは、ワインに自分の香りを足さない器だ。新しい樽のようなバニラや焼いた木の香りが、先に立たない。だから注ぎたてのこの赤は、少し無口に聞こえる。聞こえてくるのは、葡萄そのものの声だけだ。それが、時間をかけて体に落ちてくる。
サンルーフ
後半のある夜、家福とみさきは、走る車のなかで煙草を吸う。屋根のサンルーフを開け、煙草を持った手だけを、二人とも外へ出す。顔は合わせない。夜の道を走りながら、二つの小さな火が、屋根の上で揺れている。
閉めきってきた車の屋根が、ひらいている。
Casablanca も、皮の下で一か月、甕のなかで九か月、閉じた時間を過ごしてきた。栓を抜き、グラスのなかで空気に触れて、ようやくダークチェリーとカシスが上がってくる。閉じたあとに、口が開く。この映画でいちばん静かな開放の場面と、この一本がいちばんおいしくなる瞬間は、同じ形をしている。
揺れない運転
家福がみさきを認めるのは、話が合うからではない。停まるときも曲がるときも、車が揺れないからだ。その滑らかさの裏には、彼女が運転を覚えた、苦い理由がある。
この赤の骨格も、しっかりしている。マルベックの暗さも、皮と過ごした一か月の厚みもある。それでも舌の上では、角が立たずに滑っていく。三時間のあいだ、隣の席に置いておける。

ネルソンを旅する
アッパー・ムーテレの丘は、はるか昔の氷河が運んできた砂礫を、茶色い粘土が固めてできている。雨が降ると、粘土は水を抱えて重くなる。雨のあと、農道脇の溝には、流れきらなかった泥と落ち葉が溜まる。それを手で掻き出して、水の通り道をあけておく。
水を抱えた重い土では、葡萄はゆっくり熟す。急がずに熟すぶん、果実は詰まり、骨格が残る。ムーテレのピノが、しっかりした骨組みを持つのはそのためだ。Casablanca の暗い果実も、この遅さから来ている。
広島で、みさきは家福を、海沿いのごみ処理場へ案内する。平和記念公園から続く軸線が、建物の中央を抜けて、瀬戸内の海まで通っている。
観光地ではない場所に、その土地の芯がある。泥を掻き出した溝の先にも、同じものがある。

この映画の夜に
温度: 15〜16℃。冷蔵庫に入れていたなら、再生の三十分前に出しておく。冷やしすぎると、果実が上がってくるまでに時間がかかりすぎる。
グラス: ふくらみのある、ピノ用のグラス。上がってくる香りを溜めておける形がいい。
時間: 179分。再生ボタンを押す前に栓を抜き、最初に注いでおく。最初のうちは、控えめなままでいい。タイトルが出るころ、注ぎ足す。ここで果実が前に出てくる。高槻が車内で長く語る夜に、もう一度。最後のひと口は、北海道の雪の場面のために残しておく。
食事: 炙った鴨や、塩で焼いた鶏。焼いたきのこに醤油をひとたらし。旨味と香ばしさが、後半の乾いたミネラルとつながる。長い映画なので、つまめるものを小皿に分けておくといい。
在庫: 2021年。入ってきたのは、四本だけだ。
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マスクをした人の多い、どこかの町のスーパーで、みさきが買い物をしている。袋を抱えて出てくると、赤い車の座席で、大きな犬が待っている。
彼女は車を出す。
グラスの底には、開ききった赤が、まだ少しだけ残っている。
Film
ドライブ・マイ・カー / Drive My Car 2021 / 日本 / 179分(日本公開 2021-08-20) 監督: 濱口竜介 脚本: 濱口竜介, 大江崇允(原作: 村上春樹) 撮影: 四宮秀俊 音楽: 石橋英子 出演: 西島秀俊, 三浦透子, 霧島れいか, 岡田将生 ほか 受賞: 第94回アカデミー賞 国際長編映画賞 / 第74回カンヌ国際映画祭 脚本賞
配信
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Wine
Kunoh Wines / Casablanca 2021 ピノ・ノワール 70% / メルロー 14% / マルベック 14% / ヴィオニエ 1% / ソーヴィニヨン・ブラン 1% ピノは果皮とともに31日、ほかは混醸 / アンフォラで9か月熟成 無濾過・無清澄・無添加 Upper Moutere, Nelson, New Zealand





