
十歳の典子は、家族と観たフェリーニの『道』が、わからなかった。白黒で、暗くて、何がいいのか、さっぱり。
一九九三年の春。二十歳になった典子(黒木華)は、母に勧められて、従姉の美智子(多部未華子)と近所の家の門をくぐる。茶道を教える、武田先生(樹木希林)の家だ。
床の間に、掛け軸が掛かっている。日日是好日。字は読める。意味は、わからない。
先生は、袱紗のたたみ方から教える。三角に折り、手のひらで挟み、指先で角を整える。どうしてそうするのかと訊いても、答えは返ってこない。お茶はまず形。形を先に作っておけば、心はあとから入ってくる。
そうやって、何年も経つ。
ある日、柄杓から落ちる湯の音と、水の音が、違って聴こえる。湯の音はまるく、重い。水の音は細く、明るい。同じ部屋で、ずっと鳴っていた音だ。典子はその日、はじめてそれを聴く。
観終わると、耳が変わっている。雨の音。冷蔵庫の低い唸り。自分の息の音。
その耳のまま、一本の赤を開けてほしい。お茶を煎じるように、造られた赤だ。

一杯の肖像
軽く冷やしたボトルを、卓に置く。表面が、うっすらと曇っている。
栓を抜いて、注ぐ。
色は、ロゼかと思うほど淡い。鮮やかなルビーに、わずかに紫が差す。障子越しの光にかざすと、グラスの向こうで、自分の指が透けて見える。
鼻を近づける。イチゴ。レッドチェリー。少し遅れて、ラズベリーとクランベリー。赤い果実ばかりが、混じりけなく立ちのぼる。その後ろに、軽いスパイスがひとつまみ。果実の香りとエキスだけを、そっと抜き出したような澄み方だ。
口に含む。軽い。みずみずしく、ジューシーだ。舌の上で赤い果実が詰まっていて、きれいな酸が、その輪郭をまっすぐに引く。渋みはきめが細かく、ほとんど気配だけ。飲み込んだあとも、果実の味が長く残る。
造り方が、少し変わっている。ふつうの赤ワインは、果皮を果汁に漬けたまま発酵させて、色と渋みを引き出す。このワインは、除梗した葡萄の八割を、果汁に四十八時間だけ触れさせる。それから搾って、果皮を外す。あとは古樽の中で、天然酵母が白ワインのように静かに発酵を進める。瓶詰めまでは、澱と一緒に眠らせる。
茶葉を湯に浸して、頃合いで引き上げるのと同じだ。キュヴェの名はインフュージョン。煎じる、という意味の言葉だ。
造ったのは、ニュージーランド南島、セントラル・オタゴのプロフェッツ・ロック。醸造長のポール・プジョルは、この一本を冷やして飲む赤として造っている。
2019年の生産は、273ケース。瓶の中で七年が経って、いま、ちょうど飲み頃に入ってきたところだ。

なぜ、日日是好日にインフュージョンなのか
決めた時間だけ浸して、あとは、待つ。
湯の音、水の音
稽古は、決まりごとでできている。どちらの手で柄杓を取るか。畳を何歩で渡るか。茶碗をどちらへ回すか。典子は最初、その理由を知らない。知らないまま、形を繰り返す。
先生の手は、説明をしない。柄杓を置く、その一拍の置き方だけで教える。武田先生を演じた樹木希林は、この映画の公開を待たずに世を去った。画面の中の手は、いまも同じ速さで柄杓を置いている。
インフュージョンにも、決まった形がある。八割の葡萄を、四十八時間。それより長くは漬けない。造り手は果皮から色を奪い取らず、決めた時間だけ浸して、手を離す。
だから、このグラスには力ずくで引き出した味がない。残っているのは、赤い果実と、澄んだ酸だけだ。
冷えているうちは、酸が先に来る。細く、明るい。水の音だ。部屋の温度に少し近づいたころには、赤い果実が舌の上にまるく広がる。湯の音に変わる。
同じ一本の中で、音が変わっていく。
桜の散る日
四月のある日、父が倒れたと知らせが来る。典子が病院に駆けつけても、父はもう戻らない。
葬儀のあと、典子は先生の家を訪ねる。庭で、桜が散っている。もっと会っておけばよかった、と典子は言う。先生は多くを言わない。人生に起こることは、いつも突然なのだと、それだけを言う。
典子は泣く。先生も、一緒に泣く。
それでも、次の稽古の日は来る。同じ部屋で、同じ手順で、湯を汲む。形は、悲しい週にも崩れない。崩れない形があるから、人はその中で崩れていられる。
この場面では、グラスに手を伸ばさなくていい。卓に置いたままにしておく。ワインは、そのあいだも少しずつ部屋の温度になっていく。
雨を聴く
父を見送った年のある日、典子は雨の音を聴いている。梅雨の雨と、秋の雨は、音が違う。
雨の日は、雨を聴く。雪の日は、雪を見る。夏には暑さを、冬には身の切れるような寒さを味わう。
最初の稽古の日から、十年以上。床の間の四文字が、ようやく典子の中に降りてくる。
このワインも、急がなかった。2019年に摘まれた葡萄は、瓶の中で七年を過ごした。若いうちの明るい果実はそのままに、旨味と奥行きが重なってくる頃だと言われている。造られた年には、まだ誰にもわからなかった味だ。
窓の外で雨が降っているなら、少しだけ窓を開けて、一口含む。

セントラル・オタゴを旅する
まだ空気の冷たい朝、斜面に人が集まる。
ニュージーランド南島の内陸、ベンディゴ地区。ロッキー・ポイントの畑は、レイク・ダンスタンという湖を見下ろす、北向きの急斜面にある。南半球では、北向きが陽の当たる側だ。
足元には、灰色の片岩が薄く重なっている。踏むと、乾いた音がする。石の多い斜面は水を溜めないから、樹は根を深く降ろし、小さな房しかつけない。
夏の昼は焼けるように暑く、夜は一気に冷える土地だ。房は昼のあいだに熟し、夜のあいだに酸を張りつめる。その両方を抱えたまま、朝早く、気温の低いうちに手で摘まれる。
籠に入った房は、蔵へ運ばれ、除梗され、四十八時間だけ果汁に浸される。
典子が毎週通った部屋のように、この斜面にも毎年、同じ朝が来る。
同じ朝は、一度もない。

この映画の夜に
形から入る。 意味は、あとから来る。
温度: 軽く冷やして、12℃前後から。冷蔵庫でよく冷えていたら、観はじめる20〜30分前に出しておく。注いだら、ボトルは卓に出したままでいい。映画が進むにつれて、ワインの音も変わっていく。
グラス: 小ぶりでいい。茶碗を両手で受けるように、急がずに持つ。一度にたくさんは注がない。少しずつ、回数を重ねる。
食事: 造り手は、薪窯のピザにいちばん合うワインだと言う。茶室の映画にピザ、と思うかもしれないが、気取らなくていい。この夜は、生ハムを一皿。焼いたきのこに、醤油をほんの一滴。青菜のおひたし。澄んだ酸が塩気を受け、赤い果実が出汁の旨味に寄り添う。
タイミング: 冒頭、十歳の典子が『道』を観ているあいだは、まだ開けない。武田先生の家の門をくぐったら、栓を抜く。袱紗をたたむ手元を見ながら、最初のひと口を。湯の音と水の音が分かれて聴こえたら、注ぎ足す。桜の散る春は、グラスを置いたままで。雨を聴く場面で、もう一度。
終幕のあとで: 映画は100分。最後は、画面が暗くなってから飲む。できれば、雨の夜に。
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四十代の典子が、もう一度『道』を観ている。
今度は、泣いている。
すぐにはわからなかったものに、戻ってくる日がある。
グラスの底に、赤い果実の香りが、まだ残っている。
Film
日日是好日 / Every Day a Good Day 2018 / 日本 / 100分 監督・脚本: 大森立嗣 原作: 森下典子『日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ』 撮影: 槇憲治 音楽: 世武裕子 出演: 黒木華, 樹木希林, 多部未華子
配信
見放題 Prime Video / Hulu / U-NEXT / DMM TV
レンタル Apple TV Store / FOD
購入 Google Play Movies
2026年9月時点
Wine
Prophet's Rock / Infusion Pinot Noir 2019 Pinot Noir 100% 約8割を48時間スキンコンタクト / 古樽・天然酵母発酵 / マロラクティック発酵なし / 瓶詰めまで澱と熟成 Rocky Point, Bendigo, Central Otago, New Zealand 2019年 生産273ケース 750ml ¥6,160



