
夜中の2時半に、目が覚める。
もう一度眠れる気はしない。部屋は静かで、冷蔵庫だけが低く鳴っている。
瓶を出して、小さめのグラスに注ぐ。淡い。明かりに透かすと、向こうの壁が見えそうな赤だ。
ひと口。冷たくて、まだ何も言わない。アルコールの熱が、喉のほうへ上がってこない。夜中の体に、そのまま入っていく。
再生する。
東京の高いホテルの窓辺に、若い女が座っている。膝を抱えて、ガラスの向こうの街を見下ろしている。後ろのベッドで、夫が眠っている。
同じホテルのどこかで、中年の男も起きている。ウイスキーの広告を撮りに来た、アメリカの俳優だ。時計は夜中を指しているのに、体はまだ、海の向こうの朝にいる。
ふたりは、まだ互いを知らない。
グラスの中も、まだ閉じている。

一杯の肖像
グラスを、枕元の明かりにかざす。
淡い、素朴な赤だ。縁は薄く、中心も静かで、ニュージーランドのピノ・ノワールと聞いて思い浮かべる色より、ずっと明るい。宝石というより、窓辺に置いたままのコップの色に近い。
冷たいうちは、香りがほとんど立たない。少し待つ。手の中で温まってくると、梅の気配がじんわりのぼってくる。干した梅の、すっぱくて、どこか懐かしい匂い。
口に含むと、先に来るのは果実の甘さではなく、旨味だ。出汁のように、口の内側へ静かに広がっていく。アルコールの熱は、最後までほとんど前に出てこない。飲み込んだあとの余韻は短い。短いけれど、消えない。舌の上に、梅の旨味がひとつ残る。
畑は、造り手が世話をしている区画のなかで、いちばん高いところにある。標高200メートル。北西から、海の風がいつも吹きつけている。房から実だけを外し、古い樽で発酵させて、そのまま寝かせる。新しい樽の香りも、茎の青い香りも足していない。
造っているのは、ローレン・ヤップとジム・ブラウン。レーベルの名は Brood Fermentation。ブルードは養蜂の言葉で、巣のなかで卵や幼虫や女王蜂が守られている場所を指す。育まれる場所。大きくなるための、安全な場所。そうローレンは説明している。

なぜ、ロスト・イン・トランスレーションにこの赤なのか
短いほうの言葉が、届く。
冷たいうちに — 一行の通訳
男の名は、ボブ・ハリス。着いた夜、ホテルの人たちが並んで頭を下げ、名刺と小さな包みを差し出す。部屋に入ると、妻からの伝言が届いている。息子の誕生日を忘れていたわね、と。
エレベーターに乗ると、ボブの頭だけが、まわりの男たちから飛び出している。誰とも目が合わない。
翌日、広告の撮影がある。監督が身ぶりをまじえて、長い日本語で指示を出す。熱のこもった、長い演出だ。通訳の女性が、それを英語にする。
カメラのほうを向いて、と。
それだけか、とボブは聞き返す。もっと長く言っていなかったか。通訳は、にこやかにうなずくだけだ。ボブはグラスを持って、カメラのほうを向く。
その同じ朝、女のほうは、ひとりで部屋に残されている。名はシャーロット。写真家の夫ジョンは、仕事で早くに出ていった。彼女は窓辺で、また街を見下ろす。
グラスは、まだ冷たい。梅は、まだ出てこない。何か言いかけて、飲み込んでいるような口だ。
温まってくる — 眠れない者同士
夜更けのホテルのバー。窓の外に、東京の灯りがどこまでも広がっている。歌手がゆっくり歌い、客はまばらだ。
カウンターの端にボブがいる。少し離れた席に、シャーロットがいる。
どちらも眠れない。
話しはじめると、言葉は短い。ここで何をしているのか。ウイスキーの広告を撮っている。本当は舞台に出られたのに。結婚して何年になるのか。二年。ボブは二十五年。
ボブが冗談を言う。この街から抜け出す計画を立てよう、と。シャーロットは笑って、乗った、と答える。
何日かして、ふたりは夜の街へ出る。シャーロットの友人たちと、知らない誰かの部屋へ。ピンクのかつら。ゲームセンターの騒がしい光。小さなカラオケの部屋で、ボブが古いラブソングを、照れくさそうに、ゆっくり歌う。シャーロットは、それをじっと見ている。
歌い終わると、ふたりは廊下の床に並んで座る。シャーロットが、ボブの肩に頭をあずける。どちらも、何も言わない。
帰りのタクシーで、彼女は窓に額をつけて、流れていくネオンを見ている。
グラスも、手の中で温まってきた。梅が、じんわり出てくる。すっぱさの奥から、旨味が追いついてくる。まだ多くは語らない。けれど、さっきより近い。
底のほう — 楽になるのか
ある夜、ふたりはどちらも眠れないまま、同じベッドに横になる。服は着たまま。部屋の明かりは落としてある。
シャーロットが聞く。いつか、楽になるのか、と。
ボブは、ならない、と答える。それから、少し考えて言い直す。なる。自分が何者か、何を望んでいるかがわかってくると、そう簡単には崩れなくなる、と。
子どもの話になる。子どもができると、人生はすっかり変わってしまう。怖いことだ。けれど、あれほど楽しいこともない、とボブは言う。
シャーロットは、横を向いて丸くなる。ボブの手が、彼女の足先にそっと触れる。それだけだ。
長い話は、ひとつもない。言葉はどれも短い。それでも、この映画でいちばん確かに届いた言葉は、この夜の短いやりとりだ。
グラスは、底のほうだ。すっかり手の温度になっている。梅の旨味が、口のなかいっぱいに広がる。飲み込むと、すっと引いていく。短い。けれど、消えない。
ピノ・ノワールなら、ほかにいくらでもある。最初のひと口から華やかな果実が香る、濃く、よく磨かれたピノも。
それでもこの一本を、この映画の隣に置く。夜中の2時半に開けても、アルコールの熱が先に立たないからだ。眠れない体に、そのまま入ってくる。そして、長い説明をしない。温まるのを待つと、梅の旨味をひとつだけ、口に正確に残す。長い演出のあとに通訳が残した、一行の英語のように。
だから、冷たいまま急いで飲み干すと、この赤は何も言わないまま終わってしまう。ふたりが出会うまでに、何日かの眠れない夜が要ったように。
造り手は、自分たちのレーベルを、巣のなかの安全な場所の名で呼んだ。巨大な夜の街のなかで、高いホテルのバーは、ふたりにとってそういう場所だった。

海風の丘を旅する
丘のいちばん上に立つと、まず風に押される。
北西から、タスマン湾を渡ってきた海の風だ。髪が顔にかかって、しばらく目を開けていられない。葡萄の葉が、いっせいに同じ方向へ傾いている。
ニュージーランド南島の北のはし、ネルソン。日が長く、夜は冷える。葡萄のとなりに、ホップや果樹の畑が並んでいる。この高い区画の実は、海風のなかで、ゆっくり、濃くなりすぎないまま熟していく。
ローレンは、アメリカのポートランドでホップを育て、葡萄を使ったビールを造っていた。ジムはニュージーランドの人で、オーストラリアやイタリア、オレゴンの蔵を渡り歩いてきた。2,019年、南島の収穫の現場で出会う。その年の終わり、ポートランドで迷う。ここに残るか、自分たちの蔵を始めるか。
ネルソンには、ほとんど行ったことがなかった。ふたりは、地図を見て決めた。日照と、土と、葡萄とホップが隣り合っていること。2,020年のはじめに移り住む。ジムが畑を、ローレンがビールを受け持ち、ワインはふたりで造る。
見知らぬ土地に着いたふたりが、そこで小さな安全な場所をつくった。映画のふたりは、選ばずに東京に着き、数日だけ、そういう場所を見つけた。
冬の剪定、春の芽かき、秋の収穫、発酵、圧搾、瓶詰め。小さな蔵では、一年じゅう仕事の中身が変わる。そのすべてに、ふたりの手が入っている。

この映画の夜に
観るなら、夜遅くがいい。できれば、眠れない夜に。
瓶は冷蔵庫から出して、少し置いておく。手に取ってひんやりするくらい、13度から15度で開ける。冷やしすぎると、梅が出てこない。
グラスは小さめのもので。ホテルのバーで出てくるような、飾らない形がいい。大きなグラスで香りを追いかけるより、口のなかで待つほうが、この赤には合う。
つまむものは、塩気のある小さなものを。梅干し。冷奴。焙ったナッツ。バーのカウンターに出てくるくらいの量で足りる。
部屋の明かりは、枕元のひとつだけ。空調の音が聞こえるくらいの静けさで。
撮影の場面のあいだは、グラスはまだ冷たく、何も言わない。バーでふたりが言葉を交わすころ、梅がじんわり出てくる。ベッドに並んで横になる夜のために、ひと口、残しておく。
観るのは、ひとりがいい。あるいは、遠く離れた誰かのことを、少しだけ思い出しながら。
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別れぎわ、彼は彼女を抱き寄せて、 耳もとで、何かを言う。
こちらには、聞こえない。
残しておいたひと口を、 いま、飲む。
短い。 けれど、消えない。
Film
ロスト・イン・トランスレーション / Lost in Translation 2003 / アメリカ・日本 / 102分 監督・脚本: ソフィア・コッポラ 撮影: ランス・アコード 音楽: ブライアン・レイツェル, ケヴィン・シールズ 出演: ビル・マーレイ, スカーレット・ヨハンソン, ジョヴァンニ・リビシ, アンナ・ファリス アカデミー賞 脚本賞
配信 主要配信では見つかりません
2026年9月時点
Wine
Brood Fermentation / Sedure Pinot Noir 2022 Pinot Noir 100% 標高200m / 北西の海風 / 除梗 / 古樽発酵・熟成 Nelson, New Zealand





