
映画が終わる。
エンドロールが白い列になって昇りきると、場内が明るくなる。立ち上がる音、鞄の留め金、隣で始まる「よかったね」——その全部を遠くに聞きながら、まだ肘掛けに手を置いたままでいる。さっきの最後の一場面が、瞼の裏で、まだ動いている。
人がはけて、掃除の人が来るまで、たいていそうしている。
外は、夜だった。
帰りに、いつもの店に寄る。去年の今頃に開けたのと、同じ造り手の、同じ畑の一本を選ぶ。
部屋で、栓を抜く。コルクは湿って、濡れた土の匂いがした。注ぐと、去年より色が淡い。ひと口。覚えのある酸が、今年は少しだけ、角が取れている。
同じ葡萄、同じ畑。それでも、二度と戻らない一年が、この一杯に入っている。
まだ、立ち上がらなくていい。
映画を観た夜は、いつもこうです。はじめから、こうだったわけではありません。少しだけ、昔の話を聞いてください。
映画は、好きだと思っていた。
正確には、映画を好きな自分が、好きだった。少し文化的に見える、その気分が。
ある年、ひとりの人に出会った。その人の観方は、私とはまるで違った。予告も、あらすじも、点数も見ない。ただ観て、笑って、こうだったね、と話す。それから、図書館でその国の歴史を借りてくる。監督が何歳で撮ったのかを調べる。ときには、撮影地まで行って、そこにいた人に話を聞く。そのうえで、同じ映画を、何度も観返す。
「これ、なぜ作られたと思う?」
観終えるたび、そう聞かれた。うまく、答えられなかった。私は映画ではなく、映画を観ている自分を、眺めていただけだった。
二十四で、ソムリエになった。はじめ、ワインは嫌いだった。学生の頃のそれは、酔うための道具で、うまいもまずいもなかったから。
ところが、学ぶほど、底が見えない。山梨のワイナリーに通い、月に一度、畑を手伝った。手伝うほど、分からなくなる。ニュージーランドで一年を過ごして、なお分からない。
向こうで世話になった造り手に、この味はどうやって出すのか、と聞いた。返ってきたのは、その年の天気の話だった。雨がいつ降り、いつやんだか。味の多くは、畑に立つ前から、空が決めているらしかった。
分かったのは、ワインには底がないこと。そして、一本の後ろには、必ず一人の考えがあること。
日本に戻って、気づいた。ワインと映画は、似ている。どちらも、詳しい人が偉い、という空気がある。敷居の、高さも。
でも、知識は、偉くなるためのものではない。自分のために、作品の解像度を、造り手の解像度を、少し上げる。それだけで、昨日と同じ一本が、違う顔で応えてくる。
だから私は、観た映画に、一本のワインを添えることにしました。
それが、「幕間に一杯、」です。
選び方に、決めごとがあります。作品に「登場する」ワインは、選びません。選ぶのは、観終わったあとに残るもの——色、温度、沈黙、それから、言葉にならない身体の感じ。三つの窓から、作品を覗きます。
たとえば、ジャームッシュの『パターソン』。画面は、抑えたブルーグレー。体温を足すのは、行きつけのバーの、琥珀色の照明だけです。合わせたのは、新潟の「おうむ」。ツヴァイゲルトという地味なぶどうの、少し琥珀がかった赤。夜の終わりの色をしています。
主人公は、毎日おなじバスを走らせ、夜にひとつ、詩を書く。この赤も、ひと口ごとに、少しずつ違うことを言う。繰り返しのなかの、小さな差。二つは、同じ作法でできています。
いまは 水始涸 のころ
一年を二十四に分けた二十四節気を、さらに初候・次候・末候の三つに分ける。二十四×三で、七十二。ひとつの候はおよそ五日、名は少しずつ移り変わっていく。気候の兆しや、生きものの気配を、短い言葉に写したものだ。
もとは古代中国の暦。平安のころ日本へ渡り、けれど大陸の風物のままでは季節が合わず、一六八五年、渋川春海が『貞享暦』で日本の空気に詠み直した。いま親しまれているのは、明治七年の『略本暦』に載る七十二候である。
同じ映画を、季節を変えて観ることがある。春に観たそれと、冬に観るそれは、違う顔をしている。こちらが勝手に、その季節を持ち込んでいるのかもしれない。それでも、いい。
「霞はじめてたなびく」「桜はじめてひらく」「こおろぎ戸にあり」。暦には、そんな小さな季節の名前がある。今夜どの一本を開けるかは、その日の候が、決めてくれることもある。
季節だけではない。十年前に観た一本を、もう一度観る。フィルムは一コマも変わらないのに、まるで違う話をしている。あの頃は退屈だった場面で、いまは、うまく息ができない。変わったのは、私のほうだ。
ワインも、そうだ。棚の奥で何年も待った一本は、買った日には知らなかった味になっている。
めぐる季節と、積もる歳月。どちらも、同じ夜を、二度とは返してくれない。
この静けさは、私だけのものだと思っていた。
けれど、書いて置いておくと、返事が来る。「あの映画のあと、たしかにこの一杯でした」。会ったこともない誰かの夜と、私の夜が、静かに重なる。
ときどき、人を呼ぶ。同じ作品を観て、同じ季節のなかで、それぞれのグラスを傾ける。多くは、語らない。ただ、エンドロールのあとの数秒を、分け合っている。
読む幕間と、集まる幕間。どちらも、余韻を、もう少しだけ長く。
いつか、ある一本の映画を観ました。観終えて、思ったんです。
生きるために仕事を選んだはずが、いつのまにか、仕事のために、生のほうを使っていた、と。
これからは、もう少し、自分の生のほうを向いていたい。急がなくていい。詳しくなくていい。ただ、余韻のなかに、もう少し、留まっていたい。
——あなたにも、立ち上がれない夜が、あるのなら。
どうぞ、一杯を。私と、同じ夜を。
