
窓の外が、茜色になりかけている。
玄関へ行って、鍵をかける。がちゃり。その音を聞いてから台所に戻り、少し冷やしておいた瓶の栓を抜く。
小ぶりのグラスに、半分だけ注ぐ。中は深いガーネットで、暗いくらいだ。でも窓のほうへかざすと、縁のところだけが赤く透けて、外の空と同じ色になる。
ひと口。冷たい。房ごとのぶどうを頬ばったような、甘酸っぱい香りが先に来る。
再生する。
夜の草原を、小さな女の子が歩いている。瓦礫のあいだを抜けて、お母さん、と呼びながら。空には星が出ている。どれだけ歩いても、誰も答えない。
目が覚めると、九州の港町の朝だ。十七歳の鈴芽は、叔母の環が持たせてくれた弁当を鞄に入れて、いってきます、と家を出る。自転車で、海へ向かう坂を下っていく。
坂の途中で、見知らぬ青年とすれちがう。このあたりに廃墟はないか、と彼は聞く。扉を探しているのだ、と。
グラスの中は、まだ冷たくて明るい。この少女がなぜ、学校へ向かう道を引き返してまで彼を追ってしまうのか、映画もまだ言わない。

一杯の肖像
グラスを、もう一度窓にかざす。
中心は深いガーネット。夜になる手前の空のように暗く、縁へいくほど赤く透ける。
冷えているうちは、ぶどうの房そのものの香り。いちごの飴のような、甘い匂いも混じる。マスカット・ベーリーAという、日本で生まれた赤ぶどうの香りだ。口当たりは軽く、酸がみずみずしい。
少し置いておくと、奥から別の果実がのぼってくる。ブラックチェリー、カシス。かすかにバニラ。明るい表情の下に、もうひとつ深い色があったのだとわかる。
いまここにある2022年の茜空には、マスカット・ベーリーAのほかに、スチューベンが三割近く入っている。スチューベンは、東北でジュースや食卓用に育てられてきた黒ぶどうだ。どちらも、山形の上山と南陽の農家から届いた房。
造っているのは、宮城県石巻市雄勝町の MORIUMIUS。津波のあと、高台の廃校を直して開かれた、子どもたちが森と海の暮らしを学ぶ場所だ。そこで造られるワインには、雄勝の光の名前がついている。星影、花明かり、陽光。そしてこれは、茜空。雄勝の湾の、朝と夕の空の色だ。

なぜ、すずめの戸締まりに茜空なのか
鍵をかける前に、そこにあった声を聴く。
冷えているうちに — 三本脚の椅子
鈴芽は青年を追って、山の中の廃れた温泉街へ入る。人のいない廃墟の真ん中に、扉がひとつだけ立っている。開けると、向こうに星の出た茜色の空と、どこまでも続く草原が見える。けれど、足を踏み入れることはできない。
足もとにあった猫のような形の石を、鈴芽は引き抜いてしまう。石は、痩せた白い猫になって逃げていく。
その夜、猫は鈴芽の部屋の窓辺に現れて、青年を椅子に変える。鈴芽の、子ども用の小さな椅子だ。脚が一本欠けている。幼い誕生日に、母が手作りしてくれたものだった。
青年の名は、草太。扉を閉じて回る「閉じ師」だという。三本脚の椅子になった草太は、猫を追って港へ駆けだし、鈴芽も追う。夜のフェリーで、四国へ。
愛媛の坂道で、原付から転げ落ちたみかんを、鈴芽が受け止める。持ち主は、同い年の千果。その家に泊めてもらい、翌日、土砂に埋もれて廃校になった山の中学校で、ふたりは扉を閉じる。
鍵をかける前に、草太は目を閉じる。かつてここに通っていた子どもたちの声を、呼び戻すように。おはよう。いってきます。がちゃり。
グラスは、まだ冷たい。房の香りと、甘酸っぱい赤い果実。屈託がない。千果の手からこぼれたみかんのように、明るくて、軽い。この映画の前半は、旅の映画の顔をしている。
温まってくる — 観覧車の下
神戸まで、鈴芽は車に乗せてもらう。運転していたのはルミ。スナックを営む母親で、双子の子どもがいる。その夜、鈴芽は店を手伝い、双子の相手をする。知らない町の、知らない大人の暮らしに、少しのあいだ混ぜてもらう。
閉店後、猫を追って、廃れた遊園地へ。止まっていたはずの観覧車が、夜の中で回りだす。ゴンドラの扉の向こうに、鈴芽はまた、あの草原を見る。夢の中で、幼い自分が母を探して歩いていた場所だ。吸い寄せられるように手を伸ばしかけて、草太の声に呼び戻される。
東京で、地面の下から、赤黒い巨大なものが空へ立ちのぼる。地を揺らすもの。止めるには、要石を刺すしかない。猫が言う。要石は、おまえだ。
三本脚の椅子が、鈴芽の腕の中で冷たく凍っていく。草太の声が、遠くなる。
グラスが、手の中で温まってきた。明るい赤い果実の下から、ブラックチェリーとカシスがのぼってくる。土のような匂いと、柔らかなスパイス。さっきまで屈託なく笑っていたワインに、影が差す。明るい旅の下に、ずっと暗いものが流れていたのだと、映画もワインも、ここで打ち明ける。
底のほう — 黒く塗られた日記
鈴芽は北へ向かう。草太の友人の芹澤が運転する、古い赤いオープンカーで。心配して東京まで追いかけてきた環も、後ろの座席にいる。芹澤は、懐かしい歌ばかり流す。
道の駅で、環と鈴芽はぶつかる。環は、言うつもりのなかったことを口にしてしまう。姉を亡くしてから十二年、ひとりで姪を育ててきた重さを。鈴芽も言い返す。うちの子になれと言ったのは、そっちだと。言ってしまってから、ふたりとも黙る。
やがて、海沿いの町に着く。鈴芽が四歳まで暮らした場所だ。家のあった地面を掘ると、幼いころに埋めた缶が出てくる。中の日記は、三月十一日から先のページが、クレヨンで黒く塗りつぶされている。
その黒いページをめくった先に、一枚だけ、絵がある。草原に立つ、扉の絵だ。
グラスは、もう底のほうだ。果実の勢いは落ちついて、穏やかな渋みが舌に残る。それでも、みずみずしい酸が一本、最後まで通っている。黒く塗られたページのあとにも、まだ一枚、描かれた扉があったように。
鈴芽は、草の中に立つ扉の前に立つ。その向こうで何を見つけるのかは、映画で確かめてほしい。
マスカット・ベーリーAなら、ほかにもある。もっと華やかなものも、もっと手に入りやすいものも。
それでもこの一本を、この映画の隣に置く。茜空は、借りたものでできているからだ。
ぶどうは、山形の上山と南陽の農家から。醸造は、同じ宮城の川崎町にある Fattoria AL FIORE の蔵を借りて。そして、雄勝に通いつづけて廃校の床を磨いた、たくさんの人の手。
鈴芽も、ひとりでは北へ着けなかった。千果の家の布団、ルミの店の灯り、芹澤の車の助手席、環の、言葉にならない心配。借りたものを重ねて、彼女は扉の前まで来た。
MORIUMIUS はいま、自分たちの醸造所で造る日へ向かう途中にいる。ぶどうの割合も、年ごとに変わる。スチューベンが三割近く混じった、借りものの2022年の茜空は、この年にしかない。旅の途中の一本だ。

雄勝——空が二度赤くなる湾
雄勝の湾は、東の海へ向かって口を開いている。朝、日は海から昇る。夕方、日は背後の山へ沈む。だから晴れた日には、湾が一日に二度、茜色になる。
茜空という名前は、その両方の空のことだ。始まりの色とも、終わりの色とも決めていない。映画の扉の向こうの空が、朝焼けとも夕焼けともつかないのと同じように。
この町は、硯の町でもある。雄勝石と呼ばれる黒いスレートは、東京駅丸の内駅舎の屋根にも葺かれている。映画では、首都の地下深くに、地を鎮める要石が眠っていた。その首都の玄関の屋根を、東北の小さな町の石が押さえている。偶然だとわかっていても、少しだけ背筋が伸びる。
二〇一一年の津波で、町の中心部はほとんど流された。高台にあった木造の校舎は残り、震災のあと雄勝に通ってきた人たちの手で直されて、二〇一五年に MORIUMIUS として開いた。
いま、その校舎に子どもたちがやってくる。海に潜り、鶏に餌をやり、竈で火を起こす。夕方、湾が茜色になるころ、外から戻ってきて、引き戸を開ける。
閉じたままだった扉を、開けなおした場所だ。茜空の産地は、畑というより、この校舎の引き戸なのかもしれない。

この映画の夜に
夕方、窓の外が赤くなりはじめたら、玄関の鍵をかける。それから栓を抜く。
冷蔵庫で一時間ほど冷やしておいた瓶を、十四度前後で開けるといい。グラスは小ぶりなもので。旅先の民宿で出てくるような、気取らない一脚がいい。
料理は、雄勝の湾に寄せるなら、ホタテのバター醤油焼き。映画に寄せるなら、旅先で誰かにご馳走になるような家の味。肉じゃが、鶏の唐揚げ。醤油とみりんの甘辛に、この赤はよく懐く。
四国のみかんの坂道までは、グラスも冷たく明るい。神戸の観覧車が回りだすころ、黒い果実がのぼってくる。121分のあいだに、明るい赤は、少しずつ深い色になっていく。
黒く塗られた日記の場面まで、ひと口は残しておく。
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映画が終わったら、グラスを洗って、窓を閉める。
明日の朝、家を出るとき、いってきます、と言ってみる。
返事がなくても、その声は、この部屋に残る。
Film
すずめの戸締まり / Suzume 2022 / 日本 / 121分 監督・脚本: 新海誠 声の出演: 原菜乃華, 松村北斗, 深津絵里, 染谷将太, 伊藤沙莉, 神木隆之介 音楽: RADWIMPS, 陣内一真 第73回ベルリン国際映画祭コンペティション部門出品(日本の長編アニメとして21年ぶり)
配信
見放題 Netflix / U-NEXT / Netflix Standard with Ads
レンタル Prime Video / Apple TV Store / Google Play Movies / FOD
2026年9月時点
Wine
MORIUMIUS Farm & Winery / Akane Sora 茜空 2022 マスカット・ベーリーA 73%, スチューベン 27%(山形県上山市・南陽市の農家の葡萄) SO2無添加 / Fattoria AL FIORE での委託醸造 Miyagi, Japan(石巻市雄勝町)



