
窓の外で、雨が降りつづいている。蒸し暑い夜だ。天井の扇風機が、湿った空気をゆっくりかき回している。
冷蔵庫から出したばかりの瓶を開けて、グラスに注ぐ。濃い金色。光にかざすと、縁のほうだけが琥珀に透ける。鼻を近づけると、意外なことに、花の匂いがする。オレンジの花と、熟れた桃と、柑橘の皮。こんな映画の夜に飲むには、少し明るすぎるくらいに。
再生すると、画面の中でも天井の扇風機が回っている。
サイゴンのホテルの一室。ベッドに仰向けになったウィラード大尉の耳の中で、扇風機の羽根の音が、ヘリコプターのローター音に変わっていく。窓の外はジャングルではない。街だ。まだ、街にいる。
彼はここで、何週間も任務を待っている。前の戦地から一度は国に帰り、妻とも別れ、それでも結局ここへ戻ってきた。ジャングルにいるときは家のことを考え、家にいるとジャングルのことばかり考えていた、と彼は独白する。酒を飲み、裸で鏡の前に立ち、拳で鏡を割る。血が白いシーツに落ちる。
ここにいたくないのに、行った先がもっと悪いことも知っている。そういう夜が、誰にでも一度くらいはあったはずだ。
グラスの中は、まだ冷たくて、花の匂いがする。川は、まだ始まっていない。

一杯の肖像
冷えているうちは、マスカットの顔をしている。オレンジの花、熟れた桃、柑橘の皮、少しの青いハーブ。黄色いマスカットは、もともと誰にでも好かれる、香りの華やかな品種だ。
けれど少し温まると、様子が変わる。花が一歩下がり、干し杏と甘いスパイスが前に出る。舌の上に、白ワインにはないはずの、かすかな渋みが引っかかる。さらに時間がたつと、紅茶の葉、蜜蝋、焚いた香のような匂い。最後に残るのは、果実ではなく、塩気と、長く続くうま味だ。
そうなるのは、造り方のせいだ。黄色いマスカットを果皮ごと、およそ42日間醸す。そのあいだ6時間おきに、素手で果帽を沈める。それから古いフレンチオークの樽で15ヶ月、澱の上で寝かせる。花の品種を、六週間かけて、自分の皮の奥へ沈めていくようなやり方だ。
造り手は、スロヴェニア最古の町プトゥイのペーター・グンツ。家の始まりは1936年、曽祖父がハンガリー国境の村ドブロヴニクに最初のセラーを築いたときだ。戦後、祖父はプトゥイの醸造所で樽洗いから働きはじめ、父もそこで働いた。ペーターはプトゥイに新しいセラーを建て、グンツの名前をもう一度、自分たちのワインに戻した。
彼は醸造学校を出ていない。決まったスタイルも持たない。ワインが行きたいほうへついていく、と言う。キュヴェには、セラーで流しているレコードの名前がつく。AC/DCから取った「Dirty Deeds」。そしてこのワインは、ブラック・サバスの「War Pigs」だ。

なぜ、地獄の黙示録に War Pigs なのか
花の匂いで始まり、香の匂いで終わる。
冷たいうちに
ウィラードに下された任務は、ジャングルの奥で自分の王国を作った米軍のカーツ大佐を、「処分」すること。昼食の席で将校たちがそれを告げる。テーブルには、ローストビーフと海老が並んでいる。
哨戒艇に乗るのは、四人の若者だ。無口で厳格な艇長のチーフ。ニューオーリンズで料理人の修業をしていた、シェフ。カリフォルニアの有名なサーファー、ランス。そして、ブロンクスから来た17歳のクリーン。ラジオからはロックが流れ、ランスは舳先で日焼けしている。まだ、夏休みの舟遊びのようだ。
最初に出会うのは、キルゴア中佐の空挺騎兵隊だ。夜明けの海辺の村を、ヘリコプターの群れが、スピーカーからワルキューレの騎行を大音量で流しながら襲う。キルゴアはこの浜の波がいいと聞いて、ランスに波乗りをさせたいのだ。ナパームが森を焼き、中佐は砂浜に膝をついて、朝の焼けた匂いを褒める。
この場面は、映画史でいちばん高揚する戦闘シーンと呼ばれてきた。実際、観ているこちらの体も、音楽に持っていかれそうになる。
その高揚の中で、グラスを見る。まだ冷たいワインは、花と桃の匂いのままだ。明るく、華やかで、誰にでも好かれる。この映画の最初の一時間も、同じ顔をしている。
1970年、ヴェトナム戦争のさなかに、バーミンガムの労働者の町の若者たちが一曲の歌を書いた。命令を下す将軍たちは、黒ミサの魔女のように寄り集まって、破壊をもてあそぶ。死ぬのは、送り込まれる貧しい若者たちのほうだ——そういう歌だ。ワルキューレが戦争の燃料になる音楽だとすれば、「War Pigs」は、その燃料を注ぐ側を指さした音楽だった。
このワインの名前は、ヘリコプターの側ではなく、哨戒艇の側にある。
温まってくる
川が細くなるにつれて、船の上の空気が変わる。
マンゴーを採りに岸へ上がったシェフとウィラードの前に、茂みから虎が飛び出す。船に逃げ帰ったシェフは、叫びつづける。二度と船から降りるものか。料理人になりたかっただけの男が、ここで初めて、ジャングルの本当の顔を見る。
補給基地で、兵士たちの前に慰問のプレイメイトたちがヘリで降りてくる。熱狂は暴動になり、ヘリは逃げるように飛び去る。残された兵士たちの顔を、照明の光が照らしている。
ある日、川で出会った小舟を臨検する。怯えた家族。シェフが籠を調べようとし、娘が籠のほうへ駆け寄る。その動きに、クリーンが引き金を引く。籠の中にいたのは、子犬だった。まだ息のある女を、ウィラードが撃つ。船は、そのまま上流へ進む。
最後の米軍の前哨、ドラン橋。夜の闇に照明弾が上がり、川の上を曳光弾が飛び交う。誰が指揮をとっているのかと聞いても、兵士は答えられない。ランスはLSDをやって、花火でも見るように空を見上げている。橋は、毎晩建てられて、毎晩壊される。
気がつくと、グラスの中も変わっている。蒸し暑い部屋で温まったワインから、花が引いている。干し杏と、甘いスパイスと、舌にざらりと引っかかる渋み。華やかだったものが、少しずつ重くなり、暗くなっていく。
そして、クリーンが死ぬ。岸辺からの銃撃のさなか、届いたばかりの母親からのテープが、船の上で回っている。無事に帰ってきて、と母の声が言う。その声が流れつづける中で、17歳の少年は動かなくなる。
底のほう
霧の中から、フランス人の農園が現れる。
植民地時代から、この川のほとりで畑を守りつづけてきた一族だ。彼らはクリーンを、軍の礼をもって埋めてくれる。その夜、ウィラードは白いクロスの晩餐に招かれる。グラスにワインが注がれ、男たちは、この土地を手放さない理由と、アメリカ人が負ける理由について、声を荒げて議論する。
このワインを飲みながら、この場面を観ていると、不思議な気持ちになる。画面の中の人たちも、ワインを飲んでいる。自分たちの戦争が、もう終わっていることに気づかないまま。
霧の農園を離れると、川はさらに細く、暗くなる。岸から放たれた槍が、チーフの胸を貫く。四人いた若者は、二人になる。ウィラードは、船の上で何度もカーツの経歴書を読み返している。読むたびに、殺しに行く相手のほうに、自分が近づいていくのがわかる。
川の果てに、石の寺院がある。岸辺には、死体と、吊るされたものと、白く顔を塗った人々。写真家が躁病のように喋りつづけ、闇の奥から、禿げた頭の大男がゆっくり現れる。カーツは、ウィラードに、自分が見たものの話をする。
グラスに残しておいたひと口を、ここで飲む。すっかり温まったワインからは、もう花の匂いはしない。紅茶の葉と、蜜蝋と、焚いた香。果実が引いたあとに、塩気と、長いうま味だけが舌に残る。冷たいうちの、あの華やかなマスカットと同じワインだとは、ちょっと信じられない。
けれど、同じワインなのだ。花の匂いがしていたのは、最初から、この底のほうへ降りていく途中だった。
オレンジワインなら、スロヴェニアにもイタリアにも、いくらでもある。重く暗い赤なら、この映画の闇に、もっと素直に寄り添うだろう。それでもこの一本をこの映画の隣に置くのは、誰にでも愛される花の品種が、ひと晩かけて、茶葉と香と塩の匂いにまで降りていくからだ。ウィラードが川で見たのと、同じ順番で。そしてペーター・グンツは、その瓶に、命令する側を告発した歌の名前をつけた。

シュタイエルスカ——最古の町の丘
雨上がりのプトゥイ郊外の道は、路肩が削れて、灰色の泥灰土がむき出しになっている。
靴の底に、湿った土が重くつく。道ばたには、仕事帰りの自転車が一台。なだらかな丘の向こうに、教会の塔がひとつ見える。アルプスの裾が、東のパンノニア平原へ向かって溶けていく途中の、低いうねりだ。
プトゥイは、スロヴェニアで最も古い町だ。ローマ軍団がここに宿営し、そのころからワインを造ってきた。町の地下には、古い醸造所の石のセラーがいまも続いている。国境は何度も引き直され、国の名前は何度も変わった。そのあいだも、丘の上では葡萄が摘まれつづけた。
グンツ家の黄色いマスカットは、砂と泥灰土の斜面に植わっている。樹齢は20〜30年。化学肥料も農薬も使わず、朝の涼しいうちに手で摘む。派手な技術はない。あるのは、42日間待つ胆力と、15ヶ月寝かせる辛抱だ。
冬の終わり、この町には、クレントと呼ばれる毛皮の怪物たちが現れる。腰に大きな鈴を下げ、跳びはね、鳴らしながら、通りを練り歩く。仮面と煙と鈴の音で、冬を追い払う祭りだ。
闇の奥で怪物になった男の映画を観たあとに、この町のことを思い出すと、少しだけ息がつける。ここの怪物は、春を連れてくる。

この映画の夜に
雨の夜を選んでほしい。窓を少し開けて、湿った空気を部屋に入れておく。
瓶は、観はじめる少し前に冷蔵庫から出す。白ワインよりは少し高め、手に持つとひんやりするくらいで栓を抜けばいい。グラスは大ぶりのものを。この一本は、グラスの中でずいぶん遠くまで旅をする。
長い映画だ。ファイナル・カットなら3時間を超える。つまみでは持たないので、腰を据えて食べられるものを用意する。黒胡椒を効かせたステーキと、ローストしたじゃがいも。ラムの串焼きや、五香粉で煮た豚ばら。温まってから出てくる香と渋みは、焦げ目と香辛料によく合う。料理人になりたかったシェフも、きっと文句は言わないはずだ。
グラスは急がずに。キルゴアのヘリが飛んでいるあいだは、冷たく花の匂いのするまま飲む。ドラン橋の照明弾が上がるころには、ワインも温まって、重く暗くなっている。そして霧の農園を出るところで、ひと口だけ残しておく。川の果てのために。
エンドロールのあとも、瓶は空けきらなくていい。翌日の夕方、残りを注いでみてほしい。ひと晩たったワインは、香が少し抜けて、奥から干した果実が戻ってくる。雨がやんだあとの、静かな味がする。
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川の果てで、ひとりの男が闇を見た。
雨が、寺院の石段を打ちつづけている。
グラスの底で、琥珀は静かに冷めていく。杯は上げずに、最後のひと口を、ただ飲む。
Film
地獄の黙示録 / Apocalypse Now 1979 / アメリカ / 153分(オリジナル版)※ファイナル・カット183分 監督: フランシス・フォード・コッポラ / 原案: ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』 撮影: ヴィットリオ・ストラーロ 出演: マーティン・シーン, マーロン・ブランド, ロバート・デュヴァル, デニス・ホッパー カンヌ国際映画祭パルム・ドール(『ブリキの太鼓』と同時受賞) / アカデミー賞撮影賞・音響賞 日本公開1980年2月16日(ファイナル・カットは2020年)
配信
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2026年9月時点 · JustWatch
Wine
Gönc Winery / War Pigs 2021 Yellow Muscat 100%(有機栽培・樹齢20〜30年) 約42日間の果皮浸漬(6時間ごとに手で果帽を沈める) / 古樽15ヶ月・シュール・リー Štajerska, Slovenia



