
窓を、少しだけ傾ける。
ユロ伯父さんは、旧市街の古い建物のいちばん上に住んでいる。階段と廊下を右へ左へ、壁の向こうに消えてはまた現れながら上って、ようやく自分の部屋に帰り着く。
窓を開ける。向かいの鳥籠のカナリアが、一瞬だけ鳴く。
閉める。黙る。
もう一度、開ける。鳴く。
ガラスに跳ね返った陽が鳥籠に届いたときだけ、カナリアは朝が来たと思って歌うのだ。伯父さんは角度を確かめ、窓をその位置に留めて、満足そうに部屋へ引っこむ。
それで、おしまい。誰の役にも立たない。
甥のジェラールは、この伯父さんが大好きだ。少年の家は、水色とピンクの、何もかもが自動の家。門のブザーが鳴れば庭の噴水が上がり、台所はボタンで動く。父は工場を経営し、母は機械を磨く。その家で、伯父さんだけがスイッチの場所を知らない。
子どものころ、ひとりはいなかっただろうか。親とは違う時計で生きている大人が。
大人になったいまは、たぶん、ぼくらのほうがあの自動の家に住んでいる。
その人の時計を、一杯ぶんだけ借りたい。アルザスに、そのための白がある。名前は「レクレアシオン」。フランスの子どもたちが、チャイムと一緒に待っている言葉——休み時間。

一杯の肖像
栓を抜く。よく冷えたボトルの肩に、細かな水滴がつく。
注ぐと、淡い麦わら色。グラスを窓際に置くと、午後の光がそのまま透けて、テーブルに小さな明るい影が落ちる。
鼻を近づける前に、もう香ってくる。白い花。それから、房ごと頬張ったようなマスカット。ミュスカという品種は、ワインになっても葡萄の匂いを手放さない。
もう一度、グラスを回す。その下から、別の声がする。レモンの皮。齧ったばかりの青リンゴ。リースリングだ。さらに奥で、ピノ・グリが果実にふっくらとした肉づきを与えている。
口に含む。果実は人懐こく、けれど甘くはない。辛口だ。三つの品種がそれぞれ自分のことを話しながら、誰も声を張り上げない。飲み込んだあと、舌の上に、軽さだけでは終わらない小さな厚みが残る。ステンレスタンクで、澱と一緒に六ヶ月寝かせた分の丸みだ。
造り手は、ブリエンシュヴィレール村のメッツ家。1728年からこの村でワインを造り、いまは八代で初めての女性当主、セリーヌが畑を率いている。
アルザスは、ふつうラベルに品種の名前を書く土地だ。リースリングはリースリング、ミュスカはミュスカ。そのなかで、この一本は三つを混ぜた。時間割の外で、三人が遊んでいる。

なぜ、ぼくの伯父さんにレクレアシオンなのか
窓の角度ひとつで、午後は歌いだす。
口笛ひとつ
学校帰りの子どもたちが、物陰に隠れている。通りの向こうから、男がひとり歩いてくる。
誰かが、ピュウ、と口笛を吹く。
男が振り返る。振り返ったまま、歩く。
ゴン。街灯。
子どもたちは、転げまわって笑う。ジェラールも、そのなかにいる。家では見せない顔で。
タチは、このギャグを説明しない。口笛から衝突まで、ほんの一瞬だ。
レクレアシオンの一口も、そういう間で来る。白い花とマスカットに気を取られているうちに、柑橘と青リンゴの酸が、すっと舌の脇を抜けていく。甘いのかと思って振り返ったら、もう辛口だ。
口の中が、小さく笑う。
噴水のスイッチ
アルペル家の門で、ブザーが鳴る。
夫人が、小走りに壁のスイッチへ向かう。庭の真ん中で、金属の魚が口から水を噴き上げる。客は飛び石の上を、決められた歩幅で歩きながら、きちんと感心しなければならない。
来たのがユロだとわかると、夫人はスイッチを切る。魚は、しゅんと水を止める。
噴水は、見せるための装置だ。見る人がいなければ、動かない。
このワインには、スイッチがない。三千円台で、特別な客も記念日もいらない。夕方の台所で、ひとりで栓を抜いても、白い花は同じように香る。誰も見ていなくても、グラスの中の噴水は上がる。
空港で、手をつなぐ
映画の終わり、ユロは地方へ送られる。アルペル氏が世話した、まっとうな仕事のために。
空港の前で、アルペル氏は去っていくユロを呼びとめようと、口笛を吹く。ユロは気づかない。代わりに、見知らぬ男が振り返り、振り返ったまま歩いて——
ゴン。街灯。
父と息子は、車の陰にしゃがみこむ。声を殺して笑う。そしてジェラールが、父の手を取る。
伯父さんは行ってしまった。けれど、休み時間は、父のなかにも残っていた。
最後は、ここで注ぐ。三つの品種が、最後まで喧嘩をせずに並んでいる。飲み終えたあと、舌に小さな丸みが残る。はしゃいだあとの、少しだけあたたかい手のひらのように。

ブリエンシュヴィレール——ワイン街道の校庭
朝のワイン街道を、南へ下る。ストラスブールとコルマールのあいだ、ヴォージュ山脈の東の斜面に、小さな村が数珠のように連なっている。ブリエンシュヴィレールは、そのなかの、通り過ぎてしまいそうな一粒だ。
木組みの家。窓辺のゼラニウム。石畳の坂を上ると、村の背後に花崗岩の丘がせり上がる。グラン・クリュ・ヴィンツェンベルク。
メッツ家の畑は10ヘクタール。そのうち2ヘクタールが、この丘の急斜面にある。花崗岩からは、張りつめたミネラルの白が生まれる。この家の、いわば授業の時間のワインだ。
レクレアシオンは、そのあいだの休み時間。難しいことは言わない。けれど、軽いだけでもない。
1728年から続くカーヴで、八代目のセリーヌは畑を有機栽培に切り替え、2023年からはビオディナミへ進めている。古い家を壊さずに、窓だけを開けて、新しい風を通す。
ユロ伯父さんの窓が、向かいのカナリアに陽を届けたように。

この映画の夜に
温度: 冷蔵庫でしっかり冷やして、8〜10℃。一口目の酸が、口笛みたいに短く鳴る温度だ。
グラス: 小ぶりで、気取らないもの。ボタンで温度を管理する装置は、アルペル家に任せておこう。
食事: 市場帰りの紙袋から、ラディッシュを出す。バターを塗って、塩をひとつまみ。ミュスカの花の香りが、野菜の青さと遊ぶ。もう少し食べたい夜は、タルトフランベ(薄い生地にクリームと玉ねぎ、ベーコンを載せて焼くアルザスの郷土料理)。生ハムやフレッシュチーズ、鶏肉のグリルでもいい。
タイミング: 冒頭、犬たちが旧市街を駆けているあいだは、まだ冷蔵庫の中。ユロが建物の階段を見え隠れしながら上りはじめたら、栓を抜く。カナリアが鳴いたら、一口目。アルペル家の庭のパーティが騒がしくなってきたら、注ぎ足す。空港で父と子が車の陰にしゃがんだら、残りを注ぐ。
作法: 口笛が聞こえたら、グラスはいったんテーブルに置くこと。
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噴水は、誰かに見せるために上がる。
ワインは、誰も見ていなくても開く。
休み時間の終わりのチャイムは、まだ鳴らさなくていい。
Film
ぼくの伯父さん / Mon Oncle 1958 / フランス・イタリア / 120分 監督・脚本・主演: ジャック・タチ 出演: ジャン=ピエール・ゾラ, アドリアンヌ・セルヴァンティ, アラン・ベクール 第31回アカデミー賞外国語映画賞 / 第11回カンヌ国際映画祭審査員特別賞 日本公開1958年12月23日(デジタルリマスターで流通)
配信
見放題 U-NEXT
2026年9月時点
Wine
Hubert Metz / Recreation 2022 Muscat, Pinot Gris, Riesling ステンレスタンク・シュール・リー6ヶ月 / 有機認証(ドメーヌは2023年からビオディナミへ) Alsace, France(ブリエンシュヴィレール)



