
十年後、どうしていると思う?
答えなくていい。すぐに答えられる人は、あまりいない。
その沈黙のあいだに、ボトルを開ける。冷蔵庫から出したばかりの白を、グラスに注ぐ。ほとんど色がない。窓の外の曇り空を、そのまま少しだけ黄色くしたような色。
鼻を近づける。まだ、何も言ってこない。レモンの皮が、遠くで一度だけ鳴る。
ジョニー。ラジオの記者。全米の街をまわって、子どもたちにマイクを向けている。未来のことを、訊いてまわっている。
ジェシー。九歳。ジョニーの甥。 大人に訊かれるより、大人に訊き返すほうが得意な子。
画面は白黒だ。ヘッドホンを耳にかけると、街の音が急に大きくなる。車の音、風の音、誰かの足音。ふだん聞き流しているものが、全部こちらへ寄ってくる。
グラスに耳を寄せるようにして、ひと口含む。

一杯の肖像
最初に来るのは、酸だ。
冷たくて、まっすぐで、細い。レモンを搾った直後の、指先に残る香り。果物の甘さを探しても、まだ見つからない。そのかわり、舌の両脇に、うっすらと塩が残る。
おや、と思う。白ワインを飲んだはずなのに、海の近くの空気を吸ったような後味がする。
もう一度、口に含む。今度は、舌の上をゆっくり転がしてみる。ほんの少し、ろうそくの蠟のような、なめらかな手触りがある。その下に、青い桃のような、まだ硬い果実の気配。大声で話す白ではない。こちらが黙っているあいだだけ、小さな声で話しかけてくる。
シャルドネとリースリング。粘土の丘で育った二つの葡萄を、皮に漬けこまずにそのまま搾り、大きな古い樽で、自然の酵母にまかせて発酵させる。新しい樽の香りはつけない。清澄も、濾過もしない。
造っているのは、ローレン・ヤップとジム・ブラウン。六つの国の醸造所やブルワリーを渡り歩いた二人が、ニュージーランドのブレナムで出会い、一緒に収穫をした。2020年、南島の北のネルソンに腰を落ち着けて、Brood Fermentation を始めた。ローレンは醸造と、ビールの仕込み。ジムは畑。
「おいしい飲みものを造りたいだけ」と、彼らは言う。
ポーレン。花粉。春の畑の空気を、瓶に閉じ込めたような名前だ。

なぜ、カモン カモンに、ポーレン 2022 なのか
音符のあいだを、歩く。
ヘッドホンの向こう
ジェシーが、はじめて録音機のヘッドホンをつける。
ニューヨークの通り。何でもない雑踏の音が、急に、世界の全部みたいに大きくなる。彼は黙る。黙って、聴いている。
このワインも、冷たいうちは、ほとんど何も言わない。酸と、塩だけ。でも、黙って口の中にとどめていると、聞こえてくるものがある。レモンの奥の、少しの苦み。舌の脇に寄ってくる、塩の粒。
果物の香りで最初から話しかけてくる白ワインなら、世の中にたくさんある。この一本をこの映画の隣に置くのは、こちらが耳を澄ませたときにだけ、塩の味を返してくるからだ。
「ぼくは、だいじょうぶ」
ジェシーは、よくそう言う。だいじょうぶ、と。
父親は心の具合を崩していて、母親のヴィヴはそちらへ向かわなければならない。ジョニーには、子どもの世話の経験がない。寝かしつけも、歯みがきも、お風呂も、毎晩どこかでうまくいかない。電話の向こうで、ヴィヴが少し笑う。
ニューヨークの人混みで、ジェシーが消える。ジョニーは、真っ青になって探しまわる。見つかったあとで、叱ることも、抱きしめることも、うまくできない。
グラスは、しばらくテーブルに置かれたままだ。部屋の空気で、少しだけ温まっている。含むと、冷たかったときの細い酸がほどけて、下から黄色い果実が顔を出す。熟れかけの桃。蜂蜜を、ほんのひと垂らし。塩は消えずに、甘さのすぐ隣にいる。
だいじょうぶ、の下にあったものが、ようやく聞こえてくる。
叫ぶ
ふたりで、声が枯れるまで叫ぶ場面がある。
うまく言葉にならないものを、言葉にしないまま、全部吐き出す。叫び終わると、ふたりとも少し笑っている。そこから、話ができるようになる。
白ワインは、温度が上がると崩れるものも多い。このワインは、ぬるくなっても形を失わない。むしろ、温まるほど口の中でふくらむ。蠟のようななめらかさが、舌を覆う。叫んだあとの、少し掠れた声のように、角がとれている。
覚えていなくても
映画の終わり近く、ジョニーは、ジェシーに向けて録音を残す。
きみはきっと、この旅のことを、細かくは覚えていないだろう。でも、ぼくが覚えている。いつか、話してあげる。
グラスの底が見えてくる頃、最後のひと口を含む。飲み込んだあとも、舌の脇に、塩が残っている。果実の香りが消えたあとも、しばらく残る。
誰かと過ごした時間の、細かいところは忘れていく。でも、どんな味だったかは、口が覚えている。

粘土の丘を旅する
雨が上がったばかりの、ネルソンの丘。
長靴で畝に入ると、足の裏に土が吸いつく。金色がかった、重たい粘土。モウテレの丘の土だ。水をすぐには通さない。一度吸いこんだ雨を、夏のあいだ、ゆっくり葡萄の根に返していく。
この畑には、水を撒かない。降った雨だけで育てる。だから葡萄は、急いで大きくならない。小さな粒のまま、酸と、土の味をためこんでいく。グラスの中の塩は、この粘土から来ている。
ネルソンは、日差しが強く、夜は冷える。まわりには、ビールのためのホップ畑や、果樹園が広がっている。ビールも、ワインも、果物の酒も造れる土地。醸造の人間にとっては、果物の籠のような場所だ。
大きな醸造所のように、誰かに作業を分けたりはしない。冬の剪定も、春の芽かきも、秋の収穫も、搾るのも、瓶に詰めるのも、二人の手でやる。
ジョニーが、全米をまわってたくさんの子どもにマイクを向けたように、二人も、いくつもの国の蔵を渡り歩いてきた。そして、ここで立ち止まった。

この映画の夜に
エンドロールで、子どもたちの声が、未来の話をしている。部屋の灯りは、まだつけなくていい。
ボトルは、冷蔵庫でよく冷やしておく。ただし、グラスに注いだら、あとは放っておいていい。冷たいうちの、細くて塩っぽい酸も、少しぬるくなってからの、桃と蜜のまるさも、このワインの一部だ。グラスは、小ぶりのもので。
台所に、白身魚が一切れあれば、塩をふって焼く。ゆでたブロッコリーに、オリーブオイルとレモン。焼き海苔を一枚あぶって、ちぎってつまむのもいい。塩の味がする白は、海の近くの食べものと、すんなり仲良くなる。
隣に誰かいるなら、映画のことは話さなくていい。そのかわり、ひとつだけ訊いてみる。十年後、どうしていると思う?
答えを待つあいだ、グラスに耳を寄せるようにして、ひと口含む。
.
十年後のことは、わからない。
予定したことは起きなくて、思ってもみなかったことが起きる。
だから、続けるしかない。カモン、カモン。
舌の脇に、まだ塩が残っている。
Film
カモン カモン / C'mon C'mon 2021 / アメリカ / 108分(日本公開 2022-04-22) 監督・脚本: マイク・ミルズ 撮影: ロビー・ライアン 音楽: アーロン・デスナー, ブライス・デスナー 出演: ホアキン・フェニックス, ウディ・ノーマン, ギャビー・ホフマン, スクート・マクネイリー ※映倫 G
配信
見放題 U-NEXT
レンタル Prime Video / Google Play Movies / FOD
2026年9月時点
Wine
Brood Fermentation / ポーレン 2022 シャルドネ / リースリング 直接圧搾、大樽(古樽)で自然発酵・熟成、無清澄・無濾過 Upper Moutere, Nelson, New Zealand





