
昔々、というほど昔の話ではない。今週のことだ。
月曜に、甘いものをやめた。水曜の帰り道、パン屋の灯りから目をそらした。そして金曜の夜。あなたは自分の部屋で、まだ冷たい指先をこすり合わせている。
1959年、フランスの小さな村にも、同じ季節が来ていた。四旬節。復活祭までの四十日、欲しいものを一つずつ数えて、減らしていく季節だ。石壁は青灰色で、人々のコートは黒い。日曜の朝には、全員が教会の同じ椅子に座る。
その朝、北風が吹いて、教会の扉がひとりでに開く。坂の下から、赤いケープの母娘が上ってくる。ふたりは教会の真向かいの空き店舗を借りて、チョコレートの店を開ける。
村の人たちは、通りの向こう側を歩く。見ないようにして、横目で見る。
あなたも、たぶんそのひとりだ。
ラッセ・ハルストレムの『ショコラ』は、我慢している人たちが、ひとりずつ、自分に一粒を許していく映画である。その夜の卓に、白ワインの土地から来た、一本だけの赤を置く。

一杯の肖像
栓を抜いて、グラスに注ぐ。色は明るい。黒に近い赤ではなく、光を通す赤。灯りにかざすと、割ったざくろの粒のように透ける。
鼻を寄せる。最初に来るのは、ざくろと赤いチェリーの、張りのある果実。その奥に、雨のあとの森の下草のような、少しひんやりした香りがある。
口に含む。軽やかで、まっすぐ伸びる。けれど、薄くはない。酸化防止剤を一滴も加えずに詰めたピノ・ノワールは、果実の輪郭がそのまま生きていて、舌の上で小さく弾む。
グラスを置いて、少し待つ。冷たさがほどけるにつれて、下のほうから、ブラックチェリーの濃い甘さが上がってくる。
造ったのは、ヴァンサン・ベルジュロン。郵便配達をし、古物商をし、建築現場で働いた。大学で学んだのは美術史と文学。そこから農業を学び直し、収穫の体験をきっかけに、ワインへ人生を寄せた遅咲きの人だ。
彼の畑があるモンルイ=シュル=ロワールは、白ワインしか名乗ることを許されない土地。彼の3.4ヘクタールも、ほとんどが白のためのブドウだ。その中に0.4ヘクタールだけ、ピノ・ノワールの区画がある。駆け出しの彼に、師のフランツ・ソーモンが、トラクターと蔵の仕事と一緒に譲った畑だ。
白の規則の外にいるから、この赤は産地の名を名乗れない。代わりにラベルには、こう書いてある。白たちの中の、赤ひとり。

なぜ、ショコラにこのワインなのか
今夜の一粒は、あなたが決めていい。
回る円盤
店に入ってきた客に、ヴィアンヌ(ジュリエット・ビノシュ)は古い円盤を回して見せる。描かれた模様が、くるくると回りつづける。
「何が見える?」
答えは何でもいい。馬でも、女の人でも、ただの渦でも。彼女はその答えを聞いて、棚から一粒を選ぶ。値段も、好みの甘さも聞かない。その人がいま何を欲しがっているのかを、見立てるだけだ。
あなたのグラスも、同じように回してみる。赤い液面が、ゆっくり渦を巻く。注いだばかりのワインはまだ冷たく、ざくろの酸がまっすぐに立っている。北風の坂道のような、張りつめた明るさだ。
何が見える? 答えは、急がなくていい。
アルマンドのカップ
店の大家は、アルマンドという老女だ(ジュディ・デンチ)。口が悪く、糖尿病で、娘とは折り合いが悪く、孫にはなかなか会わせてもらえない。
ヴィアンヌは彼女に、ホットチョコレートを一杯出す。表面に、赤茶色の粉が浮いている。シナモンにしては傷んだ色だね、とアルマンドが言う。唐辛子よ、とヴィアンヌが答える。
ひと口飲んで、老女の顔がゆるむ。お酒でも入れたのかい、と聞く。入れていない。甘さの奥で、辛さが小さく火を灯しただけだ。
体に悪いと知っていて、それでも味わうと決めた顔。この映画で、いちばん勇気のある顔かもしれない。
このころには、グラスも少し温まっている。冷たかったざくろの奥から、ブラックチェリーと森の下草が上がってくる。明るい果実の底に、湿った土の暗さが一本通る。甘いだけではないことが、アルマンドのカップと同じようにうれしい。
ショーウィンドウの夜
村でいちばん我慢しているのは、レノ伯爵だ(アルフレッド・モリーナ)。村長として、若い神父の説教の原稿にまで手を入れ、店に通う村人を数え、あの店を閉めさせようと手を回しつづける。
復活祭の前の晩、伯爵は閉まった店に忍び込む。祭りのために飾られたショーウィンドウを、壊してしまうつもりで。
飾りを崩した拍子に、チョコレートのかけらが唇に飛ぶ。彼は、それを舐める。
そこから先は、もう止まらない。両手でつかみ、口に運び、泣きながら食べる。四十日分の我慢が、一晩でほどけていく。
栓を抜いて一時間ほどたったワインは、角が取れて、果実と土がひとつに溶けている。飲み込んだあとに、ざくろの酸が小さく残る。
この赤は、白の規則の外で生まれた。産地の名前を名乗れない。それでも、こんなにおいしい。
復活祭の朝、若い神父は説教の原稿を置いて、自分の言葉で話しはじめる。私たちの善さは、何を拒み、何を我慢したかで測るものではない。何を迎え入れ、誰を受け入れたかで測るのだ、と。

モンルイ — 白の聖地の、川のほとり
果実の奥にある、あのひんやりした香りは、どこから来るのか。
モンルイ=シュル=ロワールは、ロワール川の南岸にある。対岸はヴーヴレ。どちらもシュナン・ブランの聖地で、石灰岩の岩盤の上に、火打石の混じる粘土——ペルーシュと呼ばれる土——が乗っている。白ワインのための地質だと、何百年も前から決まっている土地だ。
ベルジュロンは、その上で有機栽培を続け、ビオディナミの暦に沿って畑を営む。馬で耕す年もある。最初のリリースは2016年、泡がたったの500本。その500本は、日本のインポーターへ渡った。この赤が日本の窓辺に届くのは、偶然ではない。
映画の中で、ルー(ジョニー・デップ)たちは、船で川から村にやって来る。定住しない者たちの道は、道路ではなく水だ。モンルイのブドウも、一年中ロワールの川風の中で育つ。白たちの中の赤は、川のほとりの赤でもある。
もうひとつ。あの青灰色の村が撮られたのは、ブルゴーニュの丘の上の村だった。ピノ・ノワールの国だ。画面の石壁の向こうは、最初からこの品種の故郷だった。

この映画の夜に
映画をかける三十分ほど前に、ボトルを冷蔵庫へ。13〜14℃くらい、手に持って少しひんやりするくらいで注ぎはじめる。冷やしすぎると香りが閉じ、ぬるいと輪郭がゆるむ。チョコレートの口どけと同じで、温度がいちばん大事だ。
グラスは、ふくらみのあるものがあればそれを。なければ、いつものグラスでいい。栓は、北風の坂道が映るころに抜く。伯爵が店の前を行ったり来たりするころには、ワインも開いてくる。
チョコレートには、選び方がある。ミルクチョコレートは避ける。甘いチョコのあとでは、ワインが酸っぱく、薄く感じられてしまう。選ぶのは、カカオ70%以上の苦い板。割ったかけらに、塩をひとつまみ。あれば唐辛子をほんの少し。苦さと塩が、ピノの赤い果実をいっそう甘く見せてくれる。
食事にするなら、鶏か豚を、カカオをひとかけ溶かしたソースで煮込んだ一皿を。アルマンドのカップが恋しくなったら、砂糖を控えたホットチョコレートに唐辛子をひと振りして、ワインと交互に。
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北風がまた吹く。窓がかたかたと鳴る。
でも今夜は、どこへも行かなくていい。
今週の我慢は、ここまで。
グラスの赤を、ひとり分、自分に許す。
Film
ショコラ / Chocolat 2000 / アメリカ・イギリス / 121分 監督: ラッセ・ハルストレム 原作: ジョアン・ハリス『ショコラ』 音楽: レイチェル・ポートマン 出演: ジュリエット・ビノシュ, ジョニー・デップ, ジュディ・デンチ, アルフレッド・モリーナ, レナ・オリン 第73回アカデミー賞5部門ノミネート
配信
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