部屋の灯りをひとつだけ残して、琥珀色を注ぐ。
グラスを口もとへ運ぶ途中で、もう香りが届く。バラの花びら、ライチ、みかんの皮。甘い予感がする。舌が、それを待ちかまえる。
ひと口ふくむと、甘くない。乾いていて、柑橘の皮のようにほろ苦い。香りだけが、まだ鼻の奥で甘い約束を続けている。
再生すると、弦のワルツが、同じ旋律を何度もくり返しはじめる。
1962年、香港。狭いアパートの隣どうしに、同じ日に越してきた二組の夫婦。けれど画面に映るのは、そのうちの二人だけだ。新聞社に勤めるチャウと、隣の部屋のチャン夫人。二人の伴侶は、いつも留守をしている。顔さえ、最後までこちらに向かない。
夜になると、チャン夫人は保温ジャーを提げて、階段を下りていく。路地の屋台で麺を買うために。花柄のチャイナドレスが、裸電球の下をゆっくり通りすぎる。同じ時刻に、チャウも階段を下りてくる。狭い踊り場で、二人は肩が触れそうになり、触れないまま、すれ違う。
誰にでも、ひとつくらいはあるはずだ。言わなかった言葉が。言っていたら何かが変わっていたかもしれない、その一言が。
グラスの中は、まだ冷たい。香りも、まだ半分しか開いていない。

一杯の肖像
濃い黄金色、ほとんど琥珀。グラスの向こうの電球が、蜜の中に沈んだように見える。
鼻を近づけると、バラの花びら、ライチ、タンジェリンの皮。モスカテルという品種の、香水のような香りだ。この香りの葡萄は、ふつう甘いワインになる。香りだけなら、デザートワインと言われても信じてしまう。
けれど口に含むと、甘さはどこにもない。グレープフルーツの皮のほろ苦さと、濃く出した茶葉のような渋み。白ワインなのに、噛めるような手ざわりがある。香りは甘い顔をして、芯は最後まで乾いている。
Curtidoは、ポルトガル語で「漬け込んだ」の意。白葡萄を、果皮ごと四ヶ月醸す。ふつうの白なら数時間で果皮と別れるところを、120日間、同じ場所に置いておく。だからこの色になり、この渋みが生まれる。野生の酵母で発酵させ、清澄も濾過もせず、亜硫酸も加えない。
造り手はティアゴ・サンパイオ。2007年、ポートワインの土地ドウロで「Folias de Baco=バッカスの戯れ」を立ち上げた。UIVOは、ポルトガル語で「遠吠え」。胸の中で吠えているのに、声にならない。そんな名前を、彼はこのワインにつけた。

なぜ、花様年華にこのオレンジなのか
私たちは、あの人たちとは違う。
冷たいうちに
ある日、チャウは気づく。チャン夫人のハンドバッグが、妻のものと同じだということに。チャン夫人も気づく。チャウのネクタイが、夫のものと同じだということに。どちらも、日本への出張みやげだった。
二人は食堂で向かいあい、答え合わせをする。言葉にしなくても、もうわかっている。互いの伴侶が、互いの伴侶と会っている。
それから二人は、奇妙な遊びをはじめる。あの二人は、どんなふうに始まったのか。チャウが相手の夫の役を、チャン夫人が相手の妻の役を演じてみる。誘う台詞を言いかけて、彼女は途中でやめてしまう。私の夫なら、そんなふうには言わない、と。
私たちは、あの人たちとは違う。チャウはそう言う。彼女も、うなずく。
このあたりで、グラスを口に運んでほしい。冷えたワインは、香りをまだ半分しか見せない。先に来るのは、柑橘の皮の苦みと、きりっとした酸。二人がまだ「チャウさん」「チャン夫人」と呼びあっている距離と、同じ温度だ。
温まってくる
雨の夜、二人は軒下で並んで立っている。傘はない。どちらも、先に歩き出そうとしない。雨の音だけが、二人のかわりに喋っている。
チャウは、武侠小説の連載を書くために、ホテルの一室を借りる。2046号室。チャン夫人は人目を避けて、そこへ通うようになる。二人で話の筋を考え、原稿を直し、夜が更ける。
ある日、熱を出したチャウは、胡麻のお汁粉が食べたいと言う。しばらくして、彼女がそれを届けに来る。別の夜は、大家の部屋で麻雀がはじまり、廊下に人の気配が絶えなくなって、チャン夫人はチャウの部屋から出られなくなる。朝まで。二人は何もしない。ただ、同じ部屋で、夜が明けるのを待つ。
このころ、グラスも温まってくる。ひと口ふくむと、閉じていたバラとライチが一気にひらき、部屋いっぱいに満ちていく。舌の上で、ワインがほんの少しだけ丸くなる。もう少しで、甘くなりそうになる。
けれど、甘くはならない。飲みこむと、やはり皮の苦みが残る。この映画の二人も、あと一歩のところで、いつも止まる。
底のほう
ある夜、二人は路地で、別れの練習をする。いつか本当に別れるときのために。チャウが、先に背を向ける。ほんの数歩で、チャン夫人は彼の肩に顔をうずめて泣き出してしまう。泣かないで、ただの練習だ、と彼は言う。
チャウはシンガポールへ発つことにする。もし切符が一枚余っていたら、一緒に来てくれるか。誰もいない2046号室で、彼はそうつぶやく。彼女が部屋に駆けつけたとき、彼はもういない。
翌年、シンガポールのチャウの部屋で電話が鳴る。受話器の向こうは、何も言わない。彼がいない間に誰かが来ていて、灰皿の吸い殻に、口紅の跡が残っている。
さらに三年がすぎる。チャン夫人は、幼い息子と、あのアパートに戻ってくる。チャウも、同じ建物を訪ねる。隣の部屋には女の人と子どもが住んでいる、と聞かされて、彼はそのドアを叩かずに帰っていく。ドア一枚ぶんの距離で、二人はまたすれ違う。
そしてカンボジア、アンコールワット。チャウは石柱の小さな穴に口を寄せ、誰にも言えなかったことを囁く。穴を土でふさいで、立ち去る。何を言ったのかは、最後まで聞こえない。
グラスに残しておいたひと口を、ここで飲む。すっかり温まったワインは、あれほど満ちていた香りがすっと引いて、茶葉のような渋みと、柑橘の皮の苦みだけが、長く舌に残る。香りは、もう思い出の中にしかない。それでも、口の中の苦みは本物で、いつまでも消えない。
オレンジワインなら、ほかにもある。もっと手ごろで、もっと飲みやすいものもある。それでもこの一本をこの映画の隣に置くのは、香りが最後まで甘い約束をして、口が最後まで、それを断り続けるからだ。ティアゴ・サンパイオは、甘いワインのための葡萄を四ヶ月、皮と一緒に黙らせて、甘くないまま瓶に詰めた。

ドウロを旅する
高原の農道は、片岩の石垣にはさまれている。
靴の底で、薄く割れた石が鳴る。石垣の向こうに、ねじれた幹の古いオリーブと、背の低い葡萄の株。谷底のドウロ川はここからは見えない。見えるのは乾いた空と、遠くの集落の白い壁だけだ。風が、昼の熱を少しずつ運んでいく。
ポルトの街から川を遡ると、両岸には段々畑が何百段も刻まれている。300年にわたって、甘く重いポートワインを生んできた風景だ。ティアゴ・サンパイオの畑は、その川岸ではなく、そこから上った高原にある。アリジョー。標高は500から700メートル。低地の灼熱を逃れて、葡萄は酸を保ったまま、ゆっくりと熟す。
アリジョーのファヴァイオスは、昔からモスカテルの村として知られてきた。香りの高いこの葡萄から、酒精を加えた甘い「モスカテル・ド・ドウロ」を造るのが、この高原の仕事だった。ティアゴの両親も、摘んだモスカテルを村の協同組合へ運んでいた。
同じ畑の、同じ葡萄から、息子は甘くないワインを造っている。果皮と四ヶ月、黙って過ごさせて。
夕方、石垣の影が長くなるころ、葡萄の房からは、ここまで甘い匂いが届く。

この映画の夜に
冷蔵庫で10℃ほどまで、しっかり冷やしておく。栓を抜くのは、観はじめる直前でいい。グラスは口の広めのものを。細いグラスでは、この香りが行き場をなくしてしまう。
夜食を用意するなら、麺がいい。ワンタン麺や、少し辛い担々麺。醸しの苦みは、スパイスや胡麻の香ばしさとよく合う。乾き物なら、陳皮やドライアプリコット、燻製のナッツ。
部屋の灯りは、ひとつだけ残す。できれば、ひとりで観てほしい。この映画は、隣に誰かがいると、少し気恥ずかしい。
グラスは急がずに。二人がまだ他人行儀なうちは、冷たいまま飲む。2046号室で原稿を書きはじめるころには、ワインも温まって、バラの香りが部屋を満たしはじめる。そして別れの練習の前に、ひと口だけ残しておく。アンコールワットの場面のために。
エンドロールが終わっても、すぐには灯りをつけないでほしい。言わなかった一言をひとつ思い出して、それを、グラスの底に向かって囁いてみる。
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あの頃は、過ぎてみれば 埃をかぶったガラス越しの風景だ。 見えるのに、もう触れられない。
それでも香りだけは、 栓を抜けば何度でも戻ってくる。
甘い約束の匂いがして、 口に含めば、やはり甘くない。 それは少しだけ、遠吠えに似た形をしている。
Film
花様年華 / 花樣年華 / In the Mood for Love 2000 / 香港・フランス / 98分 監督・脚本: ウォン・カーウァイ 撮影: クリストファー・ドイル, リー・ピンビン 出演: トニー・レオン, マギー・チャン 受賞: カンヌ国際映画祭 男優賞・高等技術委員会賞
配信
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