
午後十一時四十分。
雨は、少し前にやんだ。窓ガラスにはまだ水の粒が残っていて、向かいのビルの看板の赤が、そこに小さく滲んでいる。
冷蔵庫を開ける。白い灯りの中に、瓶が一本だけ立っている。ラベルに、大きな字で「SUPER PINK」。
注ぐと、名前ほど派手な色ではない。向こうが透けるほど淡い、サーモンピンク。オレンジを一滴だけ溶かしたような色だ。
一口。冷たい。オレンジの皮と、赤い実。細い酸が、舌の横をまっすぐ走っていく。
名前は大声なのに、色と味は小声だ。言いたいことを言えないまま、口の中にしまっている人みたいに。
1994年、香港。
重慶大厦の雑踏を、ひとりの刑事が走り抜けていく。肩がぶつかる。誰も振り返らない。ネオンが引き伸ばされて、後ろへ流れていく。
その中で、彼はひとりの女とすれ違う。金髪のかつらに、レインコート、サングラス。
いちばん近づいたとき、二人のあいだは0.01センチだった、と彼の声が言う。

一杯の肖像
グラスを窓辺に置いて、少し眺める。
冷蔵庫の灯りの下では淡いピンクだったのに、外の看板が点滅するたびに、赤くも、オレンジにも見える。輪郭が、少しだけ曖昧だ。
冷たいうちは、オレンジの皮と赤い実、それに白い花。酸はきゃしゃに見えて、しぶとい。飲みこんだあとも、じわっと舌に残る。
少し置く。手の温度が移ってくると、香りの底から、干したいちじくが出てくる。焼いたパンの皮。オレンジは皮から、砂糖で煮たオランジェットに変わる。最後に、みりんのような、甘く熟れた匂いがふっと立つ。
同じグラスなのに、さっきとは別の夜の匂いがする。
葡萄は、サンソー。南フランス、ヴァントゥー山のふもとで、有機で育てた樹から手で摘んだもの。房をそのまま搾って、果皮には漬けない。自然の酵母で三ヶ月かけて発酵させ、卵のかたちのセメントタンクで八ヶ月、ステンレスのタンクで一ヶ月。亜硫酸も足さず、濾過もせずに瓶に詰める。
造ったのは、フレデリック・コサール。ブルゴーニュのサン=ロマンで、世界中のワインリストが取り合う繊細なピノ・ノワールを造る人だ。その人が、南の葡萄を買って、肩の力を抜いて仕込む。
『恋する惑星』も、ウォン・カーウァイが武侠大作『楽園の瑕』の編集に行きづまった合間に、脚本を書き終えないまま撮った映画だった。本業の合間の、息抜きの仕事。そういうものが、ときどき、いちばん長く愛される。

なぜ、恋する惑星に、スーパー・ピンクなのか
期限が切れたあとに、甘さが来る。
4月30日 — 冷たいうちに
刑事223号は、四月一日に恋人にふられた。
エイプリル・フールの冗談だったことにして、彼は毎日、店でパイナップルの缶詰を一つ買う。彼女の好きだった果物。賞味期限は、五月一日。彼の誕生日だ。
その日までに彼女が戻らなければ、この恋も期限切れにする。
泣かないように、彼は走る。走って汗をかけば、体の水が抜けて、涙にならないから。公衆電話から、昔の知り合いの女の子に順番に電話をかける。誰も、つかまらない。
四月三十日の夜。彼は、三十個の缶詰をひとりで全部たいらげる。
グラスは、まだ冷たい。舌の横を、細い酸が走っていく。缶詰のシロップの甘さではない。果物を切ったときの、いちばん最初の、酸っぱいところだ。甘さは、まだ奥に隠れている。
それから彼はバーに入って、次にこの店に入ってきた女を好きになる、と決める。
入ってきたのは、金髪のかつらの女だった。
取引にしくじって、誰にも頼れない夜だった。ホテルの部屋で、彼女は靴を履いたまま眠ってしまう。朝になる前に、彼はその靴を脱がせる。自分のネクタイで、きれいに拭いてから、部屋を出ていく。
五月一日。ポケベルが鳴る。誕生日おめでとう、と、彼女から。
期限の日に届いたのは、終わりの知らせではなかった。
0.01センチ
雑踏の中で、彼はもうひとりの女ともすれ違っている。
食堂「ミッドナイト・エクスプレス」の、短い髪の店員。フェイ。
いちばん近づいたとき、二人のあいだは0.01センチだった。その数時間後、彼女は別の男を好きになる。
グラスを持つ指先が、少し温かくなってきている。
午後、蛍光灯の下で — ぬるくなって
刑事663号の恋人は、飛行機の客室乗務員だった。ある日、彼女はいなくなる。
彼は、部屋の石鹸に話しかける。ずいぶん痩せたな、と。濡れたタオルには、泣くなと言う。
元の恋人は、店に手紙を一通預けていく。封筒の中には、彼の部屋の鍵。彼はそれを受け取らない。
鍵は、フェイのエプロンのポケットに入る。
蛍光灯の下、大音量の「California Dreamin'」。カウンターの中で、フェイは体を揺らしている。音楽はあんなに大きいのに、言いたいことは、ひとことも口にしない。
彼の留守に、フェイは部屋に入る。水槽の金魚を入れ替える。いわしの缶詰のラベルを、別のラベルに貼り替える。タオルを替えて、ぬいぐるみを一つ増やす。彼は、しばらく気づかない。
グラスは、ぬるくなっている。冷たいうちは奥に隠れていた干したいちじくと、パンの皮が、表に出てくる。オレンジの皮は、砂糖で煮たオランジェットになる。
冷蔵庫の灯りの下で見た、あの小声のピンクは、こんな甘さをしまっていた。フェイが部屋に残していった変化と同じで、気づくのは、少し遅れてからだ。
一年後 — 底のほう
663号は、フェイを「カリフォルニア」という名の店に誘う。
雨の夜。彼は待つ。フェイは来ない。
代わりに渡されたのは、紙ナプキンに手で描いた搭乗券。日付は、一年後。
グラスの底に、あとひとくち。すっかり手の温度になって、最初の冷たさはもうない。それでも、あの細い酸は消えていない。いちじくの甘さの下で、じわっと舌に残っている。
淡いロゼなら、世の中にいくらでもある。冷たいうちだけおいしいロゼも。
このピンクは、冷たさが引いたあとに、もうひとつの顔を見せる。223号の缶詰も、フェイの搭乗券もそうだった。期限が来たあとで、話が始まる。
だからこの一本は、重慶大厦の雑踏から一年後のカウンターまで、同じグラスで付き合える。

ヴォークリューズを旅する
ヴァントゥー山は、南フランスの平野から、ひとつだけ突き出た山だ。頂のあたりは石灰岩がむき出しで、夏でも雪をかぶったように白く見える。北から吹き下ろすミストラルが、ふもとの畑を乾かしていく。
ヴェゾン=ラ=ロメーヌは、そのふもとの古い町だ。ローマ時代の石橋を、いまも人が歩いて渡っている。まわりには、粘土と石灰の丘、オリーブ、そして葡萄。
サンソーは、この乾いた土地でいちばん気楽な黒葡萄だと言われてきた。日照りに強く、よく実り、味は軽い。大物にはなれない。けれど、摘んですぐに搾ってロゼにすると、その軽さがいちばん生きる。
2022年の夏は、ひどく乾いた。葡萄は早く熟して、九月一日に摘み取られた。房は小さく、実は少なかった。
雨も、ネオンも、雑踏もない。湿った香港の夜とは、正反対の土地だ。乾いた石と、風だけがある。
グラスの最後まで舌に残る、あの細くてしぶとい酸は、その乾いた夏の、小さな実から来ている。

この映画の夜に
帰り道に、パイナップルの缶詰を一つ買う。棚から取るとき、賞味期限をちらりと確かめる。
夜食は、春巻きか、海老のビーフン。屋台の味がいい。なければ、ポテトチップスとオリーブで。
ボトルは、冷蔵庫でしっかり冷やしておく。グラスは、気取らないタンブラーで。ミッドナイト・エクスプレスのカウンターに並んでいそうな、厚手のコップがちょうどいい。
再生する。重慶大厦の雑踏で、冷たい一口を。フェイがカウンターで体を揺らすころ、グラスを手で包んで、いちじくが出てくるのを待つ。
紙ナプキンの搭乗券が出てきたら、缶詰を開ける。
パイナップルをひと切れ。それから、ぬるくなったピンクを。
缶詰の甘さに、いちじくの甘さが重なる。
.
一年後、フェイは制服を着て戻ってくる。
663号は、あの店を買い取っていた。
雨に濡れて滲んだ搭乗券の代わりに、彼女は新しい一枚を書く。行き先は、と聞かれて、彼は答える。きみが連れていきたいところへ。
空になった瓶を、流しの横に立てる。
窓ガラスの水の粒は、もう乾いている。
Film
恋する惑星 / 重慶森林 / Chungking Express 1994 / 香港 / 100分 監督: ウォン・カーウァイ 撮影: クリストファー・ドイル, アンドリュー・ラウ 出演: 金城武, ブリジット・リン, トニー・レオン, フェイ・ウォン
配信
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