
栓を抜くのは、日が傾きはじめてからでいい。
冷えた瓶の肩に、すぐ水滴がつく。麦わら色を注いで、ひと口。洋梨と、濡れた石。果実はきれいなのに、まだ何も話そうとしないワインだ。
再生すると、1983年の夏がはじまる。開け放した窓。風でふくらむカーテン。父の研究助手に自分の部屋を明け渡すことになったエリオは、二階の窓から、車を降りてくる背の高いアメリカ人を見下ろしている。部屋を奪いにきた男だ、と冗談めかして言いながら。
オリヴァーはろくに挨拶もせず、少し眠らせてくれと言って、そのまま夕食の時間まで起きてこない。
「あとで」。それが彼の別れ際の言い方で、エリオはその軽さが気に入らない。プールサイドで楽譜に向かいながら、向こうのデッキチェアを見ないようにしている。見ないようにしていることを、自分でも知っている。
グラスの中は、まだ冷たい。この夏も、まだ何も起きていない。

一杯の肖像
グラスを窓の光にかざすと、麦わら色の中に、ごく淡い緑と金色が混じっている。北イタリアの、夏の午後の色だ。
冷たいうちは、洋梨と白い花、濡れた石。輪郭ははっきりしているのに、香りは奥へ引っこんでいる。口に含むと、まず果実の丸さが来る。飲みこんだあと、舌の奥に小さな苦みがひとつ残る。この苦みは、グラスが空になるまで消えない。
サッサイアは「石の多い場所」という意味の畑の名だ。ヴェネト州ガンベッラーラの丘で、畑の足元には黒い玄武岩が埋まっている。遠い昔の火山が残していった石だ。
造るのはアンジョリーノ・マウレ。1988年、妻のロザマリアとこの丘に「ラ・ビアンカーラ」を築いた。ガルガーネガ主体の葡萄を数日だけ皮ごと浸し、大樽の中で、野生の酵母に発酵を任せる。温度は管理しない。亜硫酸はごくわずかで、年によっては加えない。そして、濾過をしない。
濾過をすれば、ワインは澄んで、揃う。けれどそのとき、角も、ざらつきも、いっしょに取り除かれる。マウレはそれをしない。自然派の生産者団体 VinNatur を立ち上げ、若い造り手たちを長く見守ってきた人は、自分のワインから何かを削ることを、いちばん嫌う。

なぜ、CMBYNにサッサイアなのか
感じたことを、消さないで。
冷たいうちに
昼の食卓には、庭で採れた杏が盛られている。父がこの果物の名の由来を話しはじめると、オリヴァーがそれを正す。ラテン語の「早く熟す」から来ているのだ、と。父は満足そうに笑う。エリオは黙って、皿の上の杏を見ている。
ピアノの前のエリオに、オリヴァーが、さっきの曲をもう一度弾いてくれと頼む。エリオはわざと、ほかの作曲家ならこう弾いただろう、という崩し方でしか弾かない。素直に頼まれたものほど、素直に差し出せない。
バレーボールの合間に、オリヴァーの手がエリオの肩にふれる。揉むように、少しだけ。エリオは身をよじって、その手から抜ける。
このあたりで、グラスをもう一度口に運んでほしい。冷たいまま、洋梨と濡れた石。ワインはまだ、本当のことを言わない。あの夏のはじめのエリオと同じで、黙っていることで何かを守っている。
温まってくる
夏が深くなると、庭の桃は熟れすぎて、枝の先で重くなる。
ある夜、母が古い物語を読んでくれる。姫に恋をした騎士が、打ち明けるべきか、黙って死ぬべきかと迷う話だ。エリオは、自分にはそんな勇気はないと言う。
翌日、街の広場の戦没者の記念碑を、ふたりは自転車を押しながら回る。何でも知っているんだな、と言われて、エリオは、大事なことは何ひとつ知らない、と答える。記念碑をはさんで、ふたりは反対側にいる。エリオは言いかけて、言い終えないまま、相手の顔を見る。そのあと彼は、オリヴァーを自分だけの場所へ連れていく。草の斜面の下を、冷たい水が流れている。
扉の下に差しこんだ紙に、返事がくる。子どもみたいなことを言うな、真夜中に、と。
暗い部屋で、オリヴァーは言う。君の名前で僕を呼んで、僕の名前で君を呼ぶから。エリオは、自分の名前を、相手に向かって呼ぶ。
このころ、グラスもぬるくなってくる。ひと口ふくむと、さっきまで黙っていた香りがふくらんでいる。熟したりんご、蜜の気配。その下から、煙るような石の匂いが立ちのぼってくる。冷たいうちは隠れていた、足元の火山だ。表面はまぶしいまま、内側だけが熱い。エリオが夏のあいだずっと、そうだったように。
底のほう
夏の終わりに、ふたりはベルガモへ小さな旅に出る。夜の石畳を走り回り、笑い、飲みすぎたエリオは路地で吐く。
駅で、オリヴァーは列車に乗る。ホームに残ったエリオは、公衆電話から母に電話をかけ、迎えに来てほしいと頼む。帰りの車の中で、彼は窓の外を見たまま泣いている。
家に戻ったエリオに、父が書斎で話しかける。何があったのかを知っていることを、隠さずに。ひとは早く楽になりたくて、自分の心を削りすぎる。何も感じないために何も感じなくなるのは、もったいない。いまの痛みを殺してはいけない。それといっしょに、あの喜びまで消えてしまうから。
グラスに残しておいたひと口を、ここで飲む。ぬるくなったサッサイアは、果実がほとんど引いて、舌の奥に苦みだけが長く残る。甘い夏の、いちばん奥にある味だ。
火山の白なら、隣のソアーヴェにもある。ガルガーネガなら、もっと手ごろなものもある。それでもこの一本をこの映画の隣に置くのは、マウレが濾過をしないからだ。澄ませるために角を削らない。飲みやすくするために、苦みを取らない。この苦みは、造り手が消さずに残したものだ。
冬の場面は、ここには書かない。

ガンベッラーラを旅する
エリオたちが自転車で走ったクレマから、東へ車で2時間ほど。ヴェネツィアとヴェローナのあいだ、ソアーヴェの隣に、ガンベッラーラという小さな丘の産地がある。知名度では隣人に遠く及ばない。同じ空の下にあって、同じ夏の光を浴びている。
数百万年前の火山活動が残した、黒い玄武岩の丘。土は鉄とミネラルを多く含み、水はけがよく、昼の熱を蓄えて、夜の葡萄に返す。ここで育つガルガーネガは、平野のものとは別人になる。果実の丸さの奥に、煙るような石の気配と、背筋の通った苦みを持つ。
アンジョリーノ・マウレは、この丘の可能性にいちばん早く気づいたひとりだった。化学肥料と添加物が当たり前だった時代に背を向けて、野生の酵母と大樽だけの醸造に賭けた。うまくいかない年もあった。それでも、やり方を削らなかった。いまでは彼のセラーに、世界中から若い造り手が学びに来る。
昼の熱は、日が落ちても石の中に残っている。この丘の葡萄は、その熱を毎晩少しずつ受け取って熟していく。

この映画の夜に
日が傾きはじめたら、瓶を冷蔵庫から出す。触れた指が冷たいと感じるくらいで、ちょうどいい。中くらいの白ワイングラスに注いで、一度だけ窓の光にかざしてから、再生する。
テーブルには、北イタリアの夏にあるものを。桃と生ハム。ブッラータとトマト。レモンを搾った白身魚。杏のタルトがあれば、あの昼の食卓に招かれた気分になれる。
グラスは急がずに。冷たいうちは、オリヴァーが来たばかりの家にいる。ぬるくなるにつれて、夏が深くなる。記念碑の場面のころに香りがひらき、書斎の場面のために、苦みの残るひと口をとっておく。132分は、このワインが本当のことを言いはじめるまでの時間と、だいたい同じだ。
エンドロールが終わっても、すぐに片づけなくていい。
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瓶は空いた。
舌の奥に、まだ苦みが残っている。
消さなくていい。あの夏も、この一杯も。
Film
君の名前で僕を呼んで / Call Me by Your Name 2017 / Italy, France, Brazil, USA / 132分 監督: ルカ・グァダニーノ 脚色: ジェームズ・アイヴォリー 撮影: サヨムブー・ムックデープロム 出演: ティモシー・シャラメ, アーミー・ハマー, マイケル・スタールバーグ
配信
見放題 U-NEXT / FOD / WOWOWオンデマンド / Bloome plus Amazon Channel ほか
レンタル Prime Video / Apple TV Store / Google Play Movies
2026年9月時点
Wine
La Biancara (Angiolino Maule) / Sassaia 2022 Garganega主体 火山性土壌 / 短い果皮浸漬・野生酵母・大樽発酵 / 無濾過 / SO2極少量 Gambellara, Veneto, Italia



