蟋蟀在戸の便り

色が深く、夜が早くなる。余韻は長く残り、ワインは少しずつ温めたくなる。

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© 2026 cinema.wine

パリ、テキサス × マテ・アン・レール
荒野を歩いてきた男に、一杯の赤を。
幕間に一杯、
Red — ラングドック

パリ、テキサス
× マテ・アン・レール

Paris, Texas, 1984 — ヴィム・ヴェンダース
prologue
車窓の埃のついたガラス越しに見る、夕暮れの荒野と赤い自販機のある路傍
乾いた道の先で、空だけがまだ明るい

部屋の明かりを、ひとつだけ残して消す。

瓶は、涼しい場所に立てておいたものだ。手に取ると、少しひんやりする。

注ぐと、暗いガーネットが出る。縁のほうだけ、煉瓦色ににじんでいる。ひと口目は、思っていたより軽い。赤い果実がふわりと来て、すぐに引いていく。

再生する。

上から見た荒野が映る。岩と、赤茶けた土と、どこまでも空いた空。スライドギターが一本、風のように長く伸びて、たわんで、また鳴る。

男が歩いている。

赤い帽子に、よれた背広。道のない場所を、まっすぐ歩いている。最後の水をあおって、空になった容器を放る。どこから来たのか、どこへ行くのか、映画は教えない。

やがて男は、荒野のはずれの店にたどり着く。氷をひとかけ口に入れて、そのまま倒れる。

名前はトラヴィス。四年間、誰も行方を知らなかった。迎えにきた弟が何を聞いても、ひと言も答えない。

グラスの中は、まだ軽くて明るい。この人がなぜ黙っているのか、まだ誰も知らない。たぶん、本人も。


wine
マテット・アン・レール 2021 / ル・クロ・ヴァガボンド
マテット・アン・レール 2021 / ル・クロ・ヴァガボンド

一杯の肖像

グラスを、残した明かりのほうへかざす。

中心は暗いガーネット。縁に向かって、煉瓦色がにじんでいる。夕暮れが一段すすんだ空の色だ。

ひんやりしているうちは、赤い果実が先に立つ。さくらんぼや木苺のような、明るい匂い。口当たりも軽く、アルコールは低めで、するすると入っていく。

手の中で温まってくると、別の顔が出てくる。干したプラム。挽いた胡椒。日なたの土。最初の明るさの下にずっといた暗さと温かさが、遅れて追いついてくる。渋みは丸く、押しつけてこない。静かに横にいる人のような味だ。

ムールヴェードルは、本来、重たく閉じた黒葡萄だ。それを房のままタンクに入れ、炭酸ガスの中で五日ほど過ごさせてから搾る。そうすると、最初に見せる顔が軽く、明るくなる。重たいほうの顔は、なくなるわけではない。後ろに回るだけだ。

造り手は、ヴァンサン・コルフとリュシー・バラル。地中海沿いのラ・パルムで、葡萄を育てている。畑は三つの村に散らばっている。だからドメーヌを〈放浪者〉と名づけた。

この一本の名は、マテ・アン・レール。マテは、ムールヴェードルの畑の南の縁を流れる、小川の名前だ。アン・レールは、宙に浮いた、という意味の言葉。


pairing
走る車の窓越しに見える、乾いた赤土と古木が並ぶコルビエールの葡萄畑
乾いた道の先で、赤い土と古木の列が夕方の光を受ける

なぜ、パリ、テキサスにこの赤なのか

背を向けたときにだけ、本当のことが言える。

冷たいうちに — 写真の中の町

弟のウォルトは、兄をロサンゼルスへ連れて帰ろうとする。トラヴィスは飛行機に乗ろうとしない。二人は車で、何日もかけて西へ戻ることになる。

その道の途中で、トラヴィスが口にしたのは、パリという言葉だった。

テキサスにある、パリという名の小さな町。そこに土地を買ったのだと、彼は言う。一枚の写真を見せる。何もない、ただの空き地。両親が初めて愛し合った場所、自分が始まった場所だと、彼は信じている。一度も行ったことはない。

ロサンゼルスの弟の家には、ハンターがいる。四年前にトラヴィスが置いていった息子だ。ウォルトと妻のアンが、ずっと自分たちの子として育ててきた。

夜、みんなで古いホームムービーを観る。何年か前、二つの家族で出かけた日のフィルム。はしゃぐ小さなハンターと、若いトラヴィスと、金色の髪の若い女。ジェーン。ハンターの母親で、トラヴィスの妻だった人。

映写機の回る音だけが鳴っている。画面の中のジェーンが、こちらに笑いかける。トラヴィスは黙って、それを見ている。

次の日、トラヴィスは学校の前でハンターを待つ。ハンターは一緒に帰るのを嫌がって、道の向こう側を歩く。トラヴィスは、こちら側を歩く。ハンターがふざけて歩き方を変えると、トラヴィスも同じように真似をする。道幅ぶん離れたまま、二人は家まで帰る。

グラスは、まだ冷たい。赤い果実が明るくて、軽い。古いフィルムの中の休日と同じ、少し上ずった明るさだ。その下にあるものは、まだ見えない。

温まってくる — トランシーバー

ジェーンは毎月、ヒューストンの銀行からハンターに送金している。アンからそれを聞いたトラヴィスは、ジェーンを探しにいくと決める。ハンターは、自分も行くと言う。

古いピックアップトラックで、二人はテキサスを横切っていく。おもちゃのトランシーバーを、二台持って。すぐ隣にいるのに、ときどき、それで話す。顔を見ないほうが、話せることがある。

送金の日、銀行の前で待つ。一台の車がやってくる。運転しているのは、ジェーンだ。

あとを追った先は、町はずれの小さな店だった。客は個室に入り、受話器をとる。ガラスの向こうの部屋に、女の子がいる。明かりの具合で、女の子の側からは客が見えない。彼女にとって、そのガラスはただの鏡だ。

トラヴィスは、ピンクのセーターを着たジェーンを、鏡のこちら側から見る。何か言おうとして、言えない。当たり障りのないことをいくつか聞いて、そのまま出ていってしまう。

見られずに見ることはできた。それでも、声は出なかった。

グラスも、手の中で温まってきた。赤い果実が少し引いて、かわりに干したプラムと、胡椒と、土の匂いがのぼってくる。最初の明るさの下に隠れていた暗さが、顔を出しはじめる。まだ、全部は見せない。

底のほう — 鏡がガラスになる

二度目、トラヴィスは同じ個室に入る。今度は椅子を回して、ガラスに背を向ける。受話器を耳にあてて、話しはじめる。

ある男と女の話だ、と。

男は、ずっと年下の妻を愛しすぎていた。離れているあいだ、妻が何をしているのか気になって仕方がなかった。仕事をやめ、酒が増え、妻を家に縛りつけるようになった。子どもが生まれた。妻は何度も逃げようとした。男は、その足首に鈴をつけた。

ある日、男が目を覚ますと、家が燃えている。妻と子は、もういない。男は外へ出て、走った。振り返らずに、人の言葉が届かなくなるところまで。

ガラスの向こうで、ジェーンが気づく。受話器を握ったまま、黙って聞いている。

やがて、彼女が話す番になる。子どもを置いていったこと。しばらくは、どの客の声もトラヴィスの声に聞こえたこと。いつのまにか、それも聞こえなくなったこと。

明かりが入れ替わる。鏡だったものが、ただのガラスになる。

四年ぶりに、ジェーンは彼の顔を見る。

グラスは、底のほうだ。すっかり手の温度になっている。暗くて、丸くて、温かい。最初のひと口にはどこにもなかった味が、いま、いちばん前にいる。渋みは強くない。舌の奥で、静かに横にいる。


南の赤なら、ほかにいくらでもある。最初のひと口から全部を語ってくる、濃くて重い赤も。

それでもこの一本を、この映画の隣に置く。最初は軽くて明るいのに、本当の声は、時間が経ってから、低く、温かく出てくるからだ。トラヴィスが、背を向けてからしか話せなかったように。

造り手は、ムールヴェードルを重たく造らなかった。房のまま炭酸ガスの中に置いて、最初の顔を軽くした。暗さは消していない。後ろに回しただけだ。だから、急いで飲み干すと、この赤のいちばん奥までは届かない。

それに、名前がある。畑を三つの村に散らした〈放浪者〉が、この一本につけたのは、宙に浮いたマテ。トラヴィスが四年間持ち歩いていたのも、宙に浮いた土地だった。写真の中にしかない、パリの空き地。


terroir
片岩の斜面に低く広がる古樹と、その先に広がるラ・パルムの塩の潟
潟を見おろす丘で、風が年中吹き抜けていく

コルビエールを旅する

ラ・パルムの丘に立つと、まず風に押される。

トラモンターナ。北西から吹きおろす乾いた風が、一年の大半、この土地を抜けていく。帽子を押さえていないと、持っていかれる。

足もとは片岩だ。薄く割れる、灰色がかった石。その上に、ムールヴェードルが低く枝を広げている。背は高くならない。風の中で、地面に近いところに実をつける。

丘の下には、塩の潟が光っている。その向こうが地中海だ。雨は少なく、夏は長い。テキサスほど極端な土地ではない。けれど、大きく空いた空と、乾いた風と、白っぽい光の感触は、あの映画の最初の数分に驚くほど似ている。

ムールヴェードルは晩生の品種だ。まわりの畑が収穫を終えたあとも、最後まで樹に残される。強い陽と乾いた風がなければ、熟しきらない。いちばん遅く、摘まれる。

言うべきことを、最後の最後まで言えなかった男がいた。この葡萄も、自分の番が来るのを、畑でじっと待っている。

コルフとバラルは、三つの村に散った区画を、一つずつ歩いて回る。栽培はビオディナミ。機械はほとんど使わず、手で畑を世話している。


how to drink
モーテルの窓辺。ネオンの光がカーテンの隙間から差し、テーブルに赤ワインのグラス
夜、一人で。急がない一杯

この映画の夜に

観はじめる少し前に、瓶を冷蔵庫から出しておく。涼しい場所に置いていたなら、そのままでいい。手に取って少しひんやりするくらい、14度前後で開けると、軽く明るい顔から始められる。

グラスは大きめのものを。温まるにつれて開いていく香りに、余白を残しておきたい。

料理は、塩と胡椒で焼いた肉。ラムでも、牛の赤身でも。スモークした肉や、焼いたソーセージもいい。道ばたのダイナーで出てくるような、飾らない皿がこの映画には似合う。

部屋の明かりは、ひとつだけ。

荒野からロサンゼルスの家までは、まだ冷たく、赤い果実が明るい。ヒューストンに着いて、あの店の廊下を初めて歩くころ、胡椒と土が出てくる。二度目の個室でトラヴィスが椅子を回すまで、ひと口は残しておく。

観るのは、ひとりがいい。あるいは、長いあいだ会っていない誰かのことを、少しだけ思い出しながら。


epilogue

.

息子に宛てたテープは、もう置いてきた。 言えることは、全部、背中越しに言った。

夜の駐車場で、エンジンをかける。

グラスの底に残しておいたひと口を、 いま、飲む。

まだ、温かい。


Film

パリ、テキサス / Paris, Texas 1984 / 西ドイツ・フランス / 145分 監督: ヴィム・ヴェンダース 脚本: サム・シェパード 撮影: ロビー・ミュラー 音楽: ライ・クーダー 出演: ハリー・ディーン・スタントン, ナスターシャ・キンスキー, ディーン・ストックウェル, ハンター・カーソン 第37回カンヌ国際映画祭 パルム・ドール

配信
見放題 U-NEXT / Cinefil Wow Plus Amazon Channel
2026年9月時点 · JustWatch

Wine

Le Clos Vagabond / Matet en l'Air 2021 Mourvèdre 100% 片岩 / 炭酸マセラシオン約5日 / タンク熟成・澱の上 / 無濾過・無添加 Corbières, La Palme, Languedoc, France

この一本を、手に取る

マテット・アン・レール 2021

マテット・アン・レール 2021

ル・クロ・ヴァガボンド

Region
ラングドック
Grape
Mourvèdre 100%
Type
red
Vintage
2021
Serve
14–18℃

片岩の畑のムールヴェードルを房のまま約5日炭酸ガスの中で過ごさせた、軽やかな赤。暗いガーネットで、縁は煉瓦色。ひんやりしているうちは赤い果実が明るく、口当たりも軽い。温まると干したプラムと胡椒、土の暗さと温かさが遅れて出てくる。渋みは丸く、静か。

残りわずか

表示価格は税込

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Film

Paris, Texas

1984 / DE / Dir. ヴィム・ヴェンダース

配信

見放題
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Wine

ル・クロ・ヴァガボンド / マテット・アン・レール 2021

Mourvèdre 100%

ラングドック

¥4,180