
部屋の明かりを、ひとつだけ残して消す。
瓶は、涼しい場所に立てておいたものだ。手に取ると、少しひんやりする。
注ぐと、暗いガーネットが出る。縁のほうだけ、煉瓦色ににじんでいる。ひと口目は、思っていたより軽い。赤い果実がふわりと来て、すぐに引いていく。
再生する。
上から見た荒野が映る。岩と、赤茶けた土と、どこまでも空いた空。スライドギターが一本、風のように長く伸びて、たわんで、また鳴る。
男が歩いている。
赤い帽子に、よれた背広。道のない場所を、まっすぐ歩いている。最後の水をあおって、空になった容器を放る。どこから来たのか、どこへ行くのか、映画は教えない。
やがて男は、荒野のはずれの店にたどり着く。氷をひとかけ口に入れて、そのまま倒れる。
名前はトラヴィス。四年間、誰も行方を知らなかった。迎えにきた弟が何を聞いても、ひと言も答えない。
グラスの中は、まだ軽くて明るい。この人がなぜ黙っているのか、まだ誰も知らない。たぶん、本人も。

一杯の肖像
グラスを、残した明かりのほうへかざす。
中心は暗いガーネット。縁に向かって、煉瓦色がにじんでいる。夕暮れが一段すすんだ空の色だ。
ひんやりしているうちは、赤い果実が先に立つ。さくらんぼや木苺のような、明るい匂い。口当たりも軽く、アルコールは低めで、するすると入っていく。
手の中で温まってくると、別の顔が出てくる。干したプラム。挽いた胡椒。日なたの土。最初の明るさの下にずっといた暗さと温かさが、遅れて追いついてくる。渋みは丸く、押しつけてこない。静かに横にいる人のような味だ。
ムールヴェードルは、本来、重たく閉じた黒葡萄だ。それを房のままタンクに入れ、炭酸ガスの中で五日ほど過ごさせてから搾る。そうすると、最初に見せる顔が軽く、明るくなる。重たいほうの顔は、なくなるわけではない。後ろに回るだけだ。
造り手は、ヴァンサン・コルフとリュシー・バラル。地中海沿いのラ・パルムで、葡萄を育てている。畑は三つの村に散らばっている。だからドメーヌを〈放浪者〉と名づけた。
この一本の名は、マテ・アン・レール。マテは、ムールヴェードルの畑の南の縁を流れる、小川の名前だ。アン・レールは、宙に浮いた、という意味の言葉。

なぜ、パリ、テキサスにこの赤なのか
背を向けたときにだけ、本当のことが言える。
冷たいうちに — 写真の中の町
弟のウォルトは、兄をロサンゼルスへ連れて帰ろうとする。トラヴィスは飛行機に乗ろうとしない。二人は車で、何日もかけて西へ戻ることになる。
その道の途中で、トラヴィスが口にしたのは、パリという言葉だった。
テキサスにある、パリという名の小さな町。そこに土地を買ったのだと、彼は言う。一枚の写真を見せる。何もない、ただの空き地。両親が初めて愛し合った場所、自分が始まった場所だと、彼は信じている。一度も行ったことはない。
ロサンゼルスの弟の家には、ハンターがいる。四年前にトラヴィスが置いていった息子だ。ウォルトと妻のアンが、ずっと自分たちの子として育ててきた。
夜、みんなで古いホームムービーを観る。何年か前、二つの家族で出かけた日のフィルム。はしゃぐ小さなハンターと、若いトラヴィスと、金色の髪の若い女。ジェーン。ハンターの母親で、トラヴィスの妻だった人。
映写機の回る音だけが鳴っている。画面の中のジェーンが、こちらに笑いかける。トラヴィスは黙って、それを見ている。
次の日、トラヴィスは学校の前でハンターを待つ。ハンターは一緒に帰るのを嫌がって、道の向こう側を歩く。トラヴィスは、こちら側を歩く。ハンターがふざけて歩き方を変えると、トラヴィスも同じように真似をする。道幅ぶん離れたまま、二人は家まで帰る。
グラスは、まだ冷たい。赤い果実が明るくて、軽い。古いフィルムの中の休日と同じ、少し上ずった明るさだ。その下にあるものは、まだ見えない。
温まってくる — トランシーバー
ジェーンは毎月、ヒューストンの銀行からハンターに送金している。アンからそれを聞いたトラヴィスは、ジェーンを探しにいくと決める。ハンターは、自分も行くと言う。
古いピックアップトラックで、二人はテキサスを横切っていく。おもちゃのトランシーバーを、二台持って。すぐ隣にいるのに、ときどき、それで話す。顔を見ないほうが、話せることがある。
送金の日、銀行の前で待つ。一台の車がやってくる。運転しているのは、ジェーンだ。
あとを追った先は、町はずれの小さな店だった。客は個室に入り、受話器をとる。ガラスの向こうの部屋に、女の子がいる。明かりの具合で、女の子の側からは客が見えない。彼女にとって、そのガラスはただの鏡だ。
トラヴィスは、ピンクのセーターを着たジェーンを、鏡のこちら側から見る。何か言おうとして、言えない。当たり障りのないことをいくつか聞いて、そのまま出ていってしまう。
見られずに見ることはできた。それでも、声は出なかった。
グラスも、手の中で温まってきた。赤い果実が少し引いて、かわりに干したプラムと、胡椒と、土の匂いがのぼってくる。最初の明るさの下に隠れていた暗さが、顔を出しはじめる。まだ、全部は見せない。
底のほう — 鏡がガラスになる
二度目、トラヴィスは同じ個室に入る。今度は椅子を回して、ガラスに背を向ける。受話器を耳にあてて、話しはじめる。
ある男と女の話だ、と。
男は、ずっと年下の妻を愛しすぎていた。離れているあいだ、妻が何をしているのか気になって仕方がなかった。仕事をやめ、酒が増え、妻を家に縛りつけるようになった。子どもが生まれた。妻は何度も逃げようとした。男は、その足首に鈴をつけた。
ある日、男が目を覚ますと、家が燃えている。妻と子は、もういない。男は外へ出て、走った。振り返らずに、人の言葉が届かなくなるところまで。
ガラスの向こうで、ジェーンが気づく。受話器を握ったまま、黙って聞いている。
やがて、彼女が話す番になる。子どもを置いていったこと。しばらくは、どの客の声もトラヴィスの声に聞こえたこと。いつのまにか、それも聞こえなくなったこと。
明かりが入れ替わる。鏡だったものが、ただのガラスになる。
四年ぶりに、ジェーンは彼の顔を見る。
グラスは、底のほうだ。すっかり手の温度になっている。暗くて、丸くて、温かい。最初のひと口にはどこにもなかった味が、いま、いちばん前にいる。渋みは強くない。舌の奥で、静かに横にいる。
南の赤なら、ほかにいくらでもある。最初のひと口から全部を語ってくる、濃くて重い赤も。
それでもこの一本を、この映画の隣に置く。最初は軽くて明るいのに、本当の声は、時間が経ってから、低く、温かく出てくるからだ。トラヴィスが、背を向けてからしか話せなかったように。
造り手は、ムールヴェードルを重たく造らなかった。房のまま炭酸ガスの中に置いて、最初の顔を軽くした。暗さは消していない。後ろに回しただけだ。だから、急いで飲み干すと、この赤のいちばん奥までは届かない。
それに、名前がある。畑を三つの村に散らした〈放浪者〉が、この一本につけたのは、宙に浮いたマテ。トラヴィスが四年間持ち歩いていたのも、宙に浮いた土地だった。写真の中にしかない、パリの空き地。

コルビエールを旅する
ラ・パルムの丘に立つと、まず風に押される。
トラモンターナ。北西から吹きおろす乾いた風が、一年の大半、この土地を抜けていく。帽子を押さえていないと、持っていかれる。
足もとは片岩だ。薄く割れる、灰色がかった石。その上に、ムールヴェードルが低く枝を広げている。背は高くならない。風の中で、地面に近いところに実をつける。
丘の下には、塩の潟が光っている。その向こうが地中海だ。雨は少なく、夏は長い。テキサスほど極端な土地ではない。けれど、大きく空いた空と、乾いた風と、白っぽい光の感触は、あの映画の最初の数分に驚くほど似ている。
ムールヴェードルは晩生の品種だ。まわりの畑が収穫を終えたあとも、最後まで樹に残される。強い陽と乾いた風がなければ、熟しきらない。いちばん遅く、摘まれる。
言うべきことを、最後の最後まで言えなかった男がいた。この葡萄も、自分の番が来るのを、畑でじっと待っている。
コルフとバラルは、三つの村に散った区画を、一つずつ歩いて回る。栽培はビオディナミ。機械はほとんど使わず、手で畑を世話している。

この映画の夜に
観はじめる少し前に、瓶を冷蔵庫から出しておく。涼しい場所に置いていたなら、そのままでいい。手に取って少しひんやりするくらい、14度前後で開けると、軽く明るい顔から始められる。
グラスは大きめのものを。温まるにつれて開いていく香りに、余白を残しておきたい。
料理は、塩と胡椒で焼いた肉。ラムでも、牛の赤身でも。スモークした肉や、焼いたソーセージもいい。道ばたのダイナーで出てくるような、飾らない皿がこの映画には似合う。
部屋の明かりは、ひとつだけ。
荒野からロサンゼルスの家までは、まだ冷たく、赤い果実が明るい。ヒューストンに着いて、あの店の廊下を初めて歩くころ、胡椒と土が出てくる。二度目の個室でトラヴィスが椅子を回すまで、ひと口は残しておく。
観るのは、ひとりがいい。あるいは、長いあいだ会っていない誰かのことを、少しだけ思い出しながら。
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息子に宛てたテープは、もう置いてきた。 言えることは、全部、背中越しに言った。
夜の駐車場で、エンジンをかける。
グラスの底に残しておいたひと口を、 いま、飲む。
まだ、温かい。
Film
パリ、テキサス / Paris, Texas 1984 / 西ドイツ・フランス / 145分 監督: ヴィム・ヴェンダース 脚本: サム・シェパード 撮影: ロビー・ミュラー 音楽: ライ・クーダー 出演: ハリー・ディーン・スタントン, ナスターシャ・キンスキー, ディーン・ストックウェル, ハンター・カーソン 第37回カンヌ国際映画祭 パルム・ドール
配信
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