
朝の食卓に、皿が二つ並ぶ。片方はトースト、片方はご飯。向かい合って座っているのに、どちらも顔を上げない。
結婚して十五年。舞台美術の仕事をするカンナと、古生物を研究する駈は、いつからか別々のものを食べ、別々の部屋で眠っている。洗濯物のなかの靴下は、もうどちらのものかわからない。わからないまま、誰も気にしていない。
長く一緒にいる人の、出会ったころの顔を、思い出せるだろうか。好きだと思った瞬間の、声の高さを。
塚原あゆ子監督の『ファーストキス 1ST KISS』は、その顔を、もう一度見に行く話だ。駈は事故で亡くなる。ひとりになった台所で、カンナは餃子を焦がす。そしてある日、首都高のトンネルを抜けると、十五年前の夏に立っている。二人が出会う、少し前の夏に。
部屋の明かりを、ひとつだけ残して落とす。薄い赤を、一杯注ぐ。

一杯の肖像
注ぐと、色は薄い赤だ。赤ワインと呼ぶには淡く、ロゼと呼ぶには、赤い。
冷えたまま口に含むと、最初は酸が先に立つかもしれない。細く、まっすぐな酸。そのすぐあとに、赤い果実が追いついてくる。ザクロ、チェリー。甘すぎない、少し酸っぱい果実だ。
試飲会でこのワインを飲んだ酒屋は、赤ワインと白ワインを混ぜた感じがよくわかる、と書いた。たしかにこの一杯には、二つの手ざわりがある。白ワインのような軽さと、赤ワインの果実。どちらかに寄りきらないまま、口のなかで並んでいる。
柔らかいさくらんぼのあとに、綺麗な酸が残る。飲み込んだあと、杏やザクロの余韻が、少しだけ続く。重さで押してくるワインではない。気づくと、もうひと口に手が伸びている。
グラスの中で少し温まってくると、果実のほうが前に出てくるかもしれない。最初の細さは、閉じていたのではなく、まだ打ち解けていなかっただけなのだろう。
造り手のイ・カンジャンティは、マッテオとルカ、ストッピーニ兄弟の小さな蔵だ。子供のころ、ペルージャの祖父母は農薬を使わず、セメントタンクで気取らない赤を造っていた。2019年、兄弟はその造り方へ戻ることにした。
ムラート 2021 は、プリニョーロ・ジェンティーレ 100%。手で摘んだ房を、半分に分ける。半分は皮ごと漬けずにすぐ搾り、白ワインとして育てる。残りの半分は皮と一緒に醸し、赤ワインとして育てる。赤の櫂入れは、足で。二つは別々のタンクで、野生の酵母だけで発酵し、熟成を終えてから、一本に合わせられる。清澄も濾過もしない。つくられたのは、三千本。
名前は、発酵中にタンクの上へできる、皮の層から来ている。

なぜ、ファーストキスに、ムラート 2021 なのか
同じ人に、もう一度恋をする。
別々の朝食
十五年のあいだに、二人の暮らしは少しずつ別々になった。カンナはパン、駈はご飯。柿ピーの袋を開けても、カンナは柿を、駈はピーナッツを取る。同じ袋から、別々の粒を。
喧嘩をしているわけではない。ただ、相手の顔を、正面から見なくなった。どこにでもある、長い結婚の、ありふれた距離だ。
最初のひと口は、この朝のころに。冷えたグラスは、まだ細いだろう。酸と、白ワインのような軽さが先に来て、赤い果実はその後ろに控えている。同じ葡萄から造った白と赤が、同じグラスの中で、まだ少しよそよそしい。
十五年前の夏
夏の光の中に、若い駈がいる。大学の研究室で化石を追いかけている、まだカンナのことを知らない駈だ。
十五年、毎朝向かいに座っていた人だ。それなのにカンナは、この顔を忘れていた。かき氷を食べ、並んで歩くうちに、彼女はもう一度、同じ人を好きになっていく。
グラスが少し温まるころには、果実が前へ出てきているかもしれない。さくらんぼの柔らかさ、ザクロの甘酸っぱさ。さっきまでのよそよそしさが、いつのまにか消えている。薄い赤は、恋の始まりにふさわしい濃さだと思う。祝杯の濃い赤ほど、まだ何も決まっていない。
ミルフィーユの時間
映画の中で、時間はミルフィーユにたとえられる。過去も、今も、薄い層になって重なっている。十五年前の夏と、別々の朝食は、同じ一枚の菓子の中にある。
カンナは、その層のあいだを、何度も行き来する。何かを変えるために。そして行き来するたびに、自分たちの十五年が、別の角度から見えてくる。彼女が最後に何を選ぶのかは、ここには書かない。
ムラートも、重ねたワインだ。同じ畑の同じ葡萄を、一度、白と赤に分ける。別々の時間を過ごさせてから、一本に重ねる。重ねたあとは、もう分けられない。最後のひと口に残る甘酸っぱさは、白の側とも、赤の側とも言えない。

丘の畑を旅する
トスカーナの南、モンテプルチャーノは丘の上の町だ。石造りの家並みが尾根に沿って続き、その下の斜面に、葡萄の畝が広がっている。
この土地では、サンジョヴェーゼをプリニョーロ・ジェンティーレと呼ぶ。粒が大きく、町の名を冠したヴィノ・ノービレという濃い赤の原料になる。
兄弟は、その丘に畝を借りている。畝と畝のあいだには、草をそのまま生やしておく。春になると表土を耕し、農薬は撒かない。収穫は手で。摘んだ房は、ウンブリアのコルチャーノにある小さな蔵へ運ばれる。
濃い赤で知られる丘の葡萄を、半分は白に、半分は赤にして、あとで重ねる。瓶に貼られるのは格付けの名ではない。テーブルワインとして、気取らない一本になる。祖父母がセメントタンクで造っていたような、食卓の赤だ。

この映画の夜に
温度: 13〜15℃くらい。冷蔵庫に入れていたなら、映画を始める少し前に出しておく。冷えているうちは酸が、温まるにつれて果実が前に出てくる。そんな移ろいがあるかもしれないので、急がずに。
グラス: ふだん使いのワイングラスで充分だ。注いだら一度、灯にかざしてみてほしい。透ける赤が見える。
時間: 124分。別々の朝食のころに注ぐ。まだ細い酸と一緒に、二人の距離を眺める。カンナが夏に立ったころに、注ぎ足す。果実がほどけはじめている。最後のひと口は、カンナが何かを選ぶ場面まで残しておく。
食事: 焼き餃子を。酢と胡椒で食べると、ワインの酸と果実がよく合う。焦がさないように。つまみなら柿ピーを、柿もピーナッツも分けずに。鶏の塩焼き、生ハムもいい。
ヴィンテージ: 2021年。造られたのは三千本だ。
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映画が終わったら、台所に立つ。
餃子を焼く。今度は、焦がさないように。
薄い赤を、二つのグラスに注ぐ。
Film
ファーストキス 1ST KISS 2025 / 日本 / 124分(日本公開 2025-02-07) 監督: 塚原あゆ子 脚本: 坂元裕二 撮影: 四宮秀俊 音楽: 岩崎太整 出演: 松たか子, 松村北斗, リリー・フランキー, 吉岡里帆, 森七菜
配信
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2026年9月時点 · JustWatch
Wine
I Cangianti / ムラート 2021 プリニョーロ・ジェンティーレ 100%(白50%/赤50%) 半分ダイレクトプレス、半分除梗、別醸造のちブレンド モンテプルチャーノ、トスカーナ





