
冷蔵庫から出した瓶の肩が、うっすら曇っている。
栓を抜いて、グラスに注ぐ。白ワインのはずなのに、思ったより色が濃い。藁のような金色の奥に、ほんのわずか、あたたかい影がある。
一口。冷たい。まず、酸がまっすぐに来る。香りは、まだ少しだけ閉じている。何かを言いかけて、黙っているような味だ。
グラスをテーブルに置いて、少し待つことにする。
冬の、北海道。せたなの牧場に、雪が横なぐりに吹きつけている。
雑誌の切り抜きを握りしめて、ひとりの女が立っている。ここで働かせてほしい、と言う。牧場の主の亘理は、嫁さんになるならいてもいい、と冗談で返す。
女は、寒さでその場に倒れてしまう。
目を覚ました彼女に、亘理は、しぼったばかりの牛乳を温めて差し出す。
こと絵は、それを一口飲んで、黙る。
それから、この人と、この牛乳のそばで生きていくことを決める。

一杯の肖像
グラスを、もう一度傾ける。
さっきより、香りが近い。青いりんごと、白い花。その向こうに、熟れた果物のような丸い香りが、ゆっくりとのぼってくる。
口に含むと、酸はきれいなまま、角だけがとれている。舌の上に、どこかパンの耳のような、やわらかい旨みが広がる。軽いのに、薄くない。
この一本には、七つの葡萄が入っている。白葡萄が五つ——ピノ・グリ、ミュラー・トゥルガウ、シャルドネ、ピノ・ブラン、リースリング。それに、黒葡萄が二つ——ピノ・ノワールと、ツヴァイゲルト。黒い葡萄まで、白ワインとして仕込んでいる。この色の濃さは、そこから来ている。
名前は Regenbogen。ドイツ語で、虹という意味だ。七つの品種から造るから、虹。
造ったのは、北海道・江部乙の高橋孝輔さん。栓を抜いてすぐは香りが閉じていることが多い、と本人が書いている。空気に触れて、温度が変わるうちに、華やかになっていく。時間とともに、違う顔を見せる、と。
えべおつWein の原点の一本だ。

なぜ、『そらのレストラン』に、この白なのか
最初の味は、誰かが、とっておいてくれている。
朝市 — 閉じているうちに
亘理は、自分の牧場の牛乳でチーズをつくっている。
けれど、仲間には食べさせない。師匠の大谷のチーズに、まだ遠く及ばないからだ。工房の棚には、誰にも出さないチーズが並んでいる。
仲間たちは、それぞれ自分の畑や牧場で、自分の食材を育てている。無農薬の野菜、羊、海のもの。東京の会社を辞めて、羊を飼いに来た神戸という若者もいる。神戸はまだ、この町になじめていない。
ある日、札幌の有名なビストロのシェフ、朝田が朝市に現れる。
朝田は、仲間たちの食材で料理をつくって、生産者たち自身にふるまう。毎日見ている野菜が、知らない顔になって皿にのる。
神戸の前に、羊の料理が置かれる。自分が育てた羊だ。神戸は、泣きながらそれを食べる。
亘理は思いつく。この町のおいしいものを、この町の人たちに食べてもらう、一日だけのレストランを開こう。
グラスはまだ冷たくて、香りは閉じたままだ。酸だけが、まっすぐに来る。誰にも出さないチーズと同じで、まだ何かを言いかけている。
師匠が倒れる — 空気に触れて
亘理は、大谷の工房へ行く。レストランで、師匠のチーズを使わせてほしい。
大谷は、なかなか首を縦に振らない。亘理は会場を探し、献立を考え、自分でもチーズを仕込みながら、何度も頼みに行く。
ある日、大谷が工房で倒れる。そして、そのまま帰らない人になる。
大谷の妻の佐弥子は、札幌の親戚のもとへ移ることになり、大谷の牧場は閉じられる。一日だけのレストランの話も、立ち消えになる。
亘理は、目の前にあったものを見失う。自分も、牧場をやめると言い出す。
仲間たちが、ひとりずつ来る。
神戸は、牧場をやめたら毎晩枕元で牛の声をまねてやる、とふざけてから、東京でどれだけ寂しかったかを話す。畑をやっている石村は、昔、音楽をやっていたことを打ち明ける。この土地に居場所をくれたのは、大谷さんだった、と。
グラスは、少しぬるくなっている。閉じていた香りが、空気に触れて、ほどけはじめる。花の奥から、熟れた果物がのぼってくる。澱の上で長く寝かせた、やわらかな旨みが、舌の上に広がっていく。
冷たいうちには、言えなかったことがある。
十年のチーズ — 底のほう
仲間たちに背中を押されて、亘理は、片付けられた大谷の工房に入る。
がらんとした棚に、チーズがひとつだけ残っている。日付は、十年前。亘理が、はじめて大谷に牛乳を届けた日だ。
大谷は、弟子の最初の牛乳でつくったチーズを、十年、黙ってとっておいた。
弟子にしてほしいと頼んだあの日、自分のチーズをつくれ、と言われたことを、亘理は思い出す。
ひとかけ、口に入れる。美味い、とつぶやく。
それから仲間たちの前で、牧場も、チーズも、続けると言う。
あらためて、レストランの日。海の見える牧草地に、長いテーブルが出る。空が、そのまま屋根になる。仲間たちが、自分の持ってきた食材のことを、ひとりずつ話していく。
大谷の妻が、亘理のチーズを一口食べる。美味しい、と言って、涙ぐむ。
最後の一皿は、仲間たち全員の食材に、亘理のチーズと、大谷のチーズをかけたものだ。
グラスの白も、もう底のほうだ。すっかり手の温度になって、最初の冷たさはない。そのかわり、閉じていたものが、ぜんぶ開いている。酸と、果実と、旨み。七つの葡萄が、ひとつの味になっている。
七品種を混ぜた白なら、ほかにもある。この一本をこの映画の隣に置くのは、これが、造り手の最初の味だからだ。
2022年の秋、高橋さんの葡萄の樹は、まだ若かった。自分の醸造所は、まだなかった。彼はその葡萄を、よその醸造所へ運んで、白に仕込んだ。そして、それをいまも「原点」と呼んで、同じ虹を造り続けている。
最初の味は、誰かが、とっておいてくれている。このグラスの中身は、その、とっておかれた最初の味だ。

自分の工房を持つ前に
高橋孝輔さんは、東京で生まれて、東京で育った。
学生のころから、北海道で農業をしたいと思っていた。先に北海道へ移り住んだのは、両親のほうだ。滝川市の江部乙の町に広がる、菜の花畑に惹かれて。
江部乙は、北海道のほぼ真ん中、中空知と呼ばれる一帯にある。昔はリンゴの産地として知られた町だ。2017年、高橋さんはそこで畑を拓き、七つの品種の葡萄を植えた。
2022年の秋は、北海道らしい年だった。夏は平年並みで、秋口に朝晩がぐっと冷えた。一か月ほど続いた収穫のうち、前半に摘んだ葡萄で、この虹は造られている。
葡萄は、岩見沢の 10R ワイナリーへ運ばれた。アメリカから来た醸造家ブルース・ガットラヴさんが開いた醸造所で、自分の醸造所を持たない栽培家たちが、同じ季節に、同じ場所で、並んで仕込みをする。
野生の酵母で、およそ二か月かけて発酵させる。それから九か月、澱を引かずに、タンクのなかで寝かせる。2023年の秋に瓶に詰め、さらに五か月、瓶のなかで休ませた。グラスに広がるやわらかな旨みは、その長い眠りから来ている。
同じ2023年の秋、江部乙に、えべおつWein の醸造所ができた。中空知で、はじめてのワイナリーだった。
このボトルは、その少し前に仕込まれた。自分の醸造所を持つ前の、最後の年の虹だ。

この映画の夜に
チーズを、二つ買ってくる。
ひとつは、つくりたての、やわらかい白いチーズ。もうひとつは、長く寝かせた、硬いチーズ。塊のまま買って、食べる直前に削れるように。
野菜は、焼くだけでいい。じゃがいもとかぼちゃを皮ごと厚く切って、オーブンで焦げ目がつくまで。あれば、羊肉を少し。それから、よく焼けたパン。
ボトルは冷蔵庫で冷やしておいて、再生する少し前に栓を抜く。グラスは、白ワイン用のなかでも、いちばん大きいものを。空気の入る余地が、あればあるほどいい。
食卓に並べたら、窓の外に向かって、いただきます、と言う。映画のなかの一家が、毎日、牛たちに向かってそうしているように。
冷たい一口は、朝市の場面で。香りが開いてくるのは、仲間たちがひとりずつ亘理を訪ねてくるころ。最後の一皿まで、グラスの底にひとくちだけ残しておく。
最後の一皿が出てきたら、こちらも、硬いチーズを削って、やわらかいチーズと一緒に野菜にのせる。
それから、残しておいた白を。
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グラスが、空になる。
皿の上に、削ったチーズのかけらが、少しだけ残っている。
窓の外の空に、ごちそうさま、と言う。
Film
そらのレストラン 2019 / 日本 / 126分 監督: 深川栄洋 出演: 大泉洋, 本上まなみ, 岡田将生, マキタスポーツ, 小日向文世, 風吹ジュン 北海道企画 第3弾(『しあわせのパン』『ぶどうのなみだ』に続く)
配信
見放題 U-NEXT / TELASA / J:COM STREAM
レンタル Prime Video / Apple TV Store / Google Play Movies / FOD
2026年9月時点
Wine
えべおつWein / Regenbogen 虹 2022 7品種のブレンド(白) Pinot Noir / Zweigelt / Pinot Gris / Müller-Thurgau / Chardonnay / Pinot Blanc / Riesling 北海道 滝川市 江部乙 2022は岩見沢の10Rワイナリーで委任醸造(自社醸造は2023年秋から) 野生酵母 / シュール・リーでステンレスタンク9ヶ月 / アルコール11%






