
「みなさんは、リンゴを本当に見たことがありますか」
公民館の小さな教室で、詩人がリンゴを一つ持ち上げる。何千回も見てきたはずのものを、もう一度、見てごらんなさい。詩はそこから始まる、と彼は言う。
最前列に、花柄のブラウスに白い帽子のミジャがいる。六十六歳。釜山で働く娘に代わって、中学生の孫ジョンウクを育てている。近ごろ、ときどき言葉が出てこない。病院では、物忘れの検査を勧められた。
家に帰ると、彼女は台所でリンゴを手に取る。窓の光のほうへ向きを変え、じっと見る。道端の花に顔を近づけ、手帳に書きつける。木の下に立って、葉の揺れる音を聞く。
同じころ、町の川から、一人の少女が引き上げられていた。孫の同級生だった。
音楽は鳴らない。風と、水と、遠くの車の音だけがある。ミジャはまだ、何も知らない。
イ・チャンドンの『ポエトリー アグネスの詩』は、ひとりの女性が、一篇の詩を書き上げるまでの139分だ。見ることを覚えた人が、見たくないものまで見てしまう話でもある。
その隣に、琥珀色に傾いた金の白を置きたい。

一杯の肖像
グラスに注ぐと、金色が底に溜まる。光にかざすと、わずかに琥珀がかっている。濾過をしていないぶん、輪郭がやわらかい。
鼻を近づける。最初に来るのは、マスカットだ。房からもいだばかりのような、瑞々しい香り。そのまま嗅いでいると、後ろから若草が出てくる。指でつぶしたハーブの青さ。いちばん奥に、炒ったヘーゼルナッツの香ばしさがある。
口に含むと、滑らかで、やわらかい。その中を、石に触れたようなミネラルが通り抜け、きめの細かいタンニンが、口の中をすっと引き締める。
飲みこんだあと、ハニーメロンの甘い影が一瞬ふくらむ。そこへスパイスがぴりっと走り、気持ちよく切れる。
もう一口、確かめたくなる。
造り手は、オーストリアのクレムスタールで畑を営むマーリース・ミュラー=グロースマン。Be Natural は、彼女の蔵が「添加物にも、決まった醸造の手順にも頼らない」と位置づけるラインの一本だ。蔵の言葉では、必要なだけ、できるだけ少なく。
品種は、マスカット・オットネル。ふつうは香りを活かすために、すぐに搾って果汁だけで仕込む葡萄だ。ここでは手で摘んだ房を、果皮ごと数週間、自然に発酵させてから搾る。ステンレスタンクと古い樽で休ませ、濾過をせずに瓶に詰める。
琥珀がかった色も、細やかなタンニンも、ハーブとナッツの奥行きも、皮と過ごした数週間から来ている。
見るほどに、奥がある白だ。

なぜ、『ポエトリー アグネスの詩』に、Be Natural 2022 なのか
杏は自ら、地面に身を投げる。
リンゴを見る
詩の教室の宿題は、見ることだった。ミジャは律儀に、花を見て、リンゴを見て、葉の音を聞く。手帳には、きれいな言葉が増えていく。けれど、詩は一行も書けない。
そのあいだに、事実が彼女のもとへ届く。死んだ少女は、孫を含む六人の男子生徒から、何か月も性的な暴力を受けていた。少年たちの父親は、学校と話をつけ、母親に示談金を払って、何もなかったことにしようとしている。ミジャにも、その分担が求められる。
彼女は少女の追悼ミサへ行き、祭壇から少女の写真をそっと持ち帰る。洗礼名は、アグネス。ミジャは、見ることをやめない。今度は、見たくないもののほうを。
Be Natural も、見つめるほどに姿を変える。最初のマスカットは、誰が嗅いでも分かるきれいな香りだ。そこで止めずにグラスを回し、少し待つと、若草が出る。ハーブが出る。いちばん奥で、ナッツが香ばしく焦げている。
表面の香りの下に、皮と過ごした時間がある。見る人にだけ、それが順番に現れる。
落ちた杏
父親たちに頼まれて、ミジャはアグネスの母親に会いに行く。示談に応じるよう、女同士で話してほしいと。
田舎道の途中に、杏の木がある。根もとに、熟した実がいくつも落ちている。ミジャは一つ拾い上げ、手帳に書きつける。杏は自ら地面に身を投げる。踏みつぶされて、次の生を迎えるために。
畑で働く母親を見つけると、ミジャは話しかける。落ちていた杏のこと、天気のこと、着ている服のこと。母親はほほえみ、二人は楽しそうに話す。
ミジャは、お金の話を一言もしないまま、畑をあとにする。
忘れたのか、言えなかったのか。映画は答えない。
グラスの色は、あの道に落ちていた杏の色をしている。熟した実の、琥珀に傾いた金。ふつうは搾ったあとに捨てられる果皮が、数週間、果汁のそばにいて、この色と、舌に残る細やかな手ざわりを残した。
地面に落ちたものを、ミジャは拾い上げる。このワインも、果皮を捨てずに、最後まで一緒にいた。
バドミントンの夜
示談金は払われた。事件は、表向きには終わる。
その夜、ミジャは釜山の娘に電話をかけ、帰ってきてほしいと頼む。孫には、風呂に入って、爪を切りなさいと言う。いつもと同じ小言のように。
それから二人は、家の前の路地でバドミントンをする。羽根が行き来する。路地に車が止まり、刑事が孫を乗せて走り去る。ミジャは騒がない。そこに残った人を相手に、白い羽根を打ち返し続ける。
孫に何を言ったのか。誰に何を伝えたのか。映画は、それを見せない。見せるのは、夜の路地で行き来する白い羽根だけだ。
Be Natural の後味にも、同じ瞬間がある。ハニーメロンの甘さが一瞬ふくらみ、スパイスがぴりっと舌を刺して、そこで、すっと切れる。やさしさのあとに、きっぱりとした終わりが来る。だから次の一口が、また新しく入ってくる。
詩の教室の最後の日、ミジャの姿は教室にない。演台に、花束と、一篇の詩だけが残されている。
詩人がそれを読みはじめる。最初はミジャの声で。途中から、少女の声に変わる。教室を出た声は、アグネスが通った道を、見た景色をたどっていく。
見ることを続けた人だけが、その声を書けた。

クレムスタールの丘を旅する
ウィーンから西へ一時間ほど。ドナウ川がヴァッハウの谷を抜けて平野へ出るあたりで、北から小さなクレムス川が流れ込む。その流域の丘が、クレムスタールだ。
ミュラー=グロースマンの畑は、ドナウの南岸、フルト=パルトの村にある。斜面には石垣が続き、葡萄の樹が低く並ぶ。
土はレスと呼ばれる、氷河期に風が運んで積もらせた黄色い細かな土だ。靴の底で踏むと柔らかく、雨のあとはすぐに乾く。水はけのよいこの土は、香りの繊細な葡萄を育てる。Be Natural の芯を通るミネラルとクリスピーな張りは、この斜面から来ている。
畑は、有機の栽培へ移りつつある。蔵の自然派ラインは、手を加えないぶん、飲み手にも少し時間を求める。蔵自身が、飲み慣れた人に向けた、と書くスタイルだ。
注いで、見て、待つ。その手間を楽しめる人のための一本だ。

この映画の夜に
いつ: 冬の、静かな夜。窓を少しだけ開けて、外の音が入る部屋で。この映画には音楽がない。風と、遠くの車の音が、そのまま映画の続きになる。
温度: 12〜13℃。冷蔵庫から出して、再生の十五分前に栓を抜いておく。最初は、マスカットと若草がくっきりしている。139分のあいだに少しずつ温まり、ヘーゼルナッツとハニーメロンが前に出てくる。
グラス: 口のすぼまった、中くらいの白ワイングラス。香りが順に立ち上がるのを、ゆっくり追える。
時間: 詩の教室でリンゴが持ち上げられるところで注ぐ。ミジャと一緒に、グラスの中を「見て」みてほしい。杏の木へ向かう田舎道の前に、注ぎ足しておく。色を、落ちた実と見比べられるように。最後は、詩が読まれはじめるときのために残しておく。
食事: 春菊とセリのナムルに、ごま油を少し。塩をふって焼いた白身魚。炒った松の実かくるみを小皿に。ナムルの青い香りは若草とハーブに、ごまと木の実はヘーゼルナッツの香ばしさに重なる。ワインのキレが、ごま油をすっと流してくれる。
話すこと: ミジャは、いつ決めたのか。最後の詩は、誰の声だったのか。
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少女の声が、橋の上まで来る。
アグネスが振り向く。
グラスの最後の一口が、ぴりっと切れる。
Film
ポエトリー アグネスの詩 / Poetry (시) 2010 / 韓国・フランス / 139分(日本公開 2012-02-11) 監督・脚本: イ・チャンドン 撮影: キム・ヒョンソク 編集: キム・ヒョン 衣裳: イ・チュンヨン 出演: ユン・ジョンヒ, イ・ダウィ, キム・ヒラ, アン・ネサン, パク・ミョンシン ほか
配信
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2026年9月時点 · JustWatch
Wine
Weingut Müller-Grossmann / Be Natural 2022 Muskat Ottonel 100% 手摘み、果皮ごと数週間、ステンレスタンクと古樽 Furth-Palt, Kremstal, Niederösterreich





