冷蔵庫から出した瓶が、すこし曇っている。
栓を抜いて、グラスに注ぐ。淡いレモン色が、まっすぐには澄まない。細かな濁りが光を抱えたまま、ゆっくりと落ち着いていく。
手のひらを濡らして、塩をひとつまみ。ごはんを、ふんわりと握る。
冷たいのを、ひと口。酸が、まっすぐに来る。
ヘルシンキの角の小さな食堂にも、まだ客はいない。
サチエは、誰もいないカウンターを拭く。布巾をたたむ。豆を挽いて、コーヒーを淹れる。窓の外で、地元の女たちが三人、店のなかを覗きこんでは、ひそひそと何か言いあって、行ってしまう。
子どもがやってる店なのかしら、と言っていたらしい。
サチエは、にっこり笑う。それから、またカウンターを拭く。

一杯の肖像
グラスを、窓の光にかざしてみる。
漂白したような白ではない。わずかな濁りと、黄色みを残した白。無濾過のまま瓶に詰めたから、こうなる。毎日洗って、毎日使う布巾の白に似ている。
鼻を近づけると、柑橘と、白い花。その奥に、摘んだばかりの青いハーブ。冷えているうちは、香りは控えめで、口のなかは澄んでいる。
瓶の名前は、WINE CHAN。
東京・錦糸町に、「わいんちゃん」という小さな店を開いていた小林さんがいる。客のグラスに、自分の選んだワインを注ぐ店だった。その小林さんが、時折ニュージーランドまで渡って、ネルソンの丘の醸造家と一緒に仕込んだ白だ。店の呼び名が、そのまま瓶に残った。
一緒に仕込んだ醸造家は、アレックス・クレイグヘッド。シドニー生まれの、元料理人だ。有機栽培の葡萄を、野生の酵母で発酵させ、亜硫酸も足さず、濾過もせずに詰める。
料理人と、店の主人。どちらも、人に出すものをつくってきた人だ。

なぜ、かもめ食堂にこの白なのか
人に握ってもらったおにぎりは、おいしい。
客の来ない店 — 冷えているうちに
最初の客は、日本のアニメが好きな青年、トンミだった。
サチエは喜んで、コーヒーは永遠に無料です、と言う。トンミは、ガッチャマンの歌詞を最後まで教えてほしいと頼む。サチエは、どうしても思い出せない。
思い出せないまま入った街のカフェで、日本人の女がひとり、ムーミンの本を読んでいる。ミドリだ。目をつぶって世界地図を指したら、フィンランドに当たった、という人だ。ミドリは、ガッチャマンの歌詞を、全部書いてくれる。
それでも、店に来るのはトンミだけだ。ミドリはガイドブックに載せようと言う。サチエは、それはこの店らしくない、と断る。
ある日、ひとりの男がふらりと入ってきて、コーヒーを淹れてみせる。粉に指をあてて、コピ・ルアック、とおまじないを唱える。コーヒーは、自分で淹れるより、人に淹れてもらうほうがうまいんだ、と言う。
グラスはまだ冷たい。酸はまっすぐで、果実は澄んでいる。香りも、まだ遠慮がちだ。磨かれて、誰もいないカウンターの味がする。
シナモンロールの匂い — テーブルの上で
ある午後、サチエはシナモンロールを焼く。
オーブンの匂いが、窓の外へ流れていく。覗いては帰っていった三人の女たちが、今日は、扉を開ける。
店に、人の声が増えていく。
ミドリは、フィンランドの人の口に合うように、トナカイの肉や、ニシンや、ザリガニを具にしたおにぎりを試す。三人で、黙って食べる。黙ったまま、顔を見あわせる。おにぎりの具は、元のままになる。
空港で荷物をなくしたマサコが来る。毎日、荷物が見つかったかどうかを電話で聞き、そのうち店を手伝いはじめる。
毎日、外から店を睨んでいた女が、ついに入ってくる。強い酒を頼んで、一気に飲む。もう一杯をサチエに差しだし、断られる。ミドリは、首を振る。女は、グラスを黙ってマサコに向ける。マサコは女の目を見て、うなずき、飲み干す。女はその場で倒れて、いびきをかいて眠ってしまう。
家まで送り届けると、女はソファで泣きだした。夫が出ていったのだという。マサコは、フィンランド語はわからない。わからないまま、手を握って、ずっとうなずいている。
グラスは、テーブルの上で少しぬるくなっている。遠慮がちだった香りが、ここで開く。柑橘の奥から、熟れた果実と、青いハーブがのぼってくる。濁りのぶんだけ、口のなかに、やわらかな厚みがある。
扉が開いて、人が入ってくるときの香りだ。
父のおにぎり — 底のほう
ミドリが聞く。どうして、おにぎりなんですか。
サチエは、父の話をする。母を早くに亡くして、家のことは自分でやってきた。父がおにぎりを握ってくれたのは、一年に二度だけ。運動会と、遠足の日。おにぎりは、自分でつくるより、人につくってもらったほうがずっとうまいんだ。父は、そう言っていた。
サチエは、あの店で、毎日、人のためにおにぎりを握っている。
グラスの白も、底のほうだ。すっかり手の温度になって、冷たさはない。そのかわり、濁りの奥にあったものが、ぜんぶ出てきている。酸は角がとれ、果実とハーブがひとつになり、塩をきかせたごはんの甘さの隣で、長く残る。
自然派の白なら、ほかにもある。この一本をこの映画の隣に置くのは、これが、小さな店の主人が、自分の客に注ぐために、遠い国で仕込んだ白だからだ。
自分で選んで、自分で開けた瓶なのに、このグラスには、人に注いでもらった味がする。
ある日、ミドリとマサコが、互いの「いらっしゃいませ」を真似しあって笑っている。力が入りすぎている、固すぎる。サチエさんのがいちばんいい、と二人は言う。サチエは、言わない。
そのとき、扉が開く。
サチエは、いつもの顔で、いらっしゃいませ、と言う。

錦糸町から、ネルソンへ
錦糸町から、ネルソンまで、およそ九千キロある。
ネルソンは、ニュージーランド南島の北の端、タスマン湾に面した港町だ。国内でも日照に恵まれ、夏は穏やかで、空が長い。絵描きや、小さな醸造家が好んで住みつく、おおらかな土地だ。
ヘルシンキも、海に開いた港の町だった。サチエがヘルシンキで店を開いたように、小林さんは、錦糸町のカウンターを営みながら、この港町へ通った。どちらも、誰かに頼まれたわけではない。
クレイグヘッドの畑は、町から少し内陸に入った、アッパー・ムーテレの丘にある。古い砂礫が風化してできた、粘土の土。その丘に、十四の品種が植えられ、有機栽培で育てられている。
この白に、どの品種が入っているかは、瓶には書かれていない。
おにぎりと同じだ。具は、食べてみるまでわからない。梅か、鮭か、おかかか。わからないまま口に入れて、塩と、米と、握った人の手の加減で、うまいかどうかが決まる。
このグラスの白も、そういうふうに飲めばいい。

明るいうちに
休日の午後、まだ外が明るいうちに、瓶を冷蔵庫でよく冷やしておく。
米を炊く。梅と、焼いた塩鮭と、醤油をまぶしたおかかを用意する。
できれば、誰かと観る。おにぎりは、相手のぶんを握る。自分のぶんは、握ってもらう。そして、グラスは相手に注いでもらう。
グラスは、小ぶりの白ワイングラスでいい。なければ、ふだんの湯呑みでもかまわない。
冷たいうちに、客の来ない店を観る。シナモンロールの匂いで扉が開くころには、グラスの香りも開いている。オーブンがあるなら、シナモンロールを焼いておいて、最後に少しだけ白を残しておく。意外なことに、喧嘩しない。
観終わるころには、窓の外が暗くなっている。
.
グラスが空になる。
コーヒーは、人に淹れてもらうほうがうまい。 おにぎりも、人に握ってもらうほうがうまい。
この白は、 遠い国で、 誰かが、あなたのぶんを握っておいてくれた一杯だ。
Film
かもめ食堂 / Ruokala Lokki 2006 / 日本 / 102分 監督・脚本: 荻上直子 原作: 群ようこ 出演: 小林聡美, 片桐はいり, もたいまさこ 撮影地: ヘルシンキ, フィンランド
配信
見放題 Hulu / U-NEXT
レンタル Prime Video / Apple TV Store / Google Play Movies / FOD
2026年9月時点 · JustWatch
Wine
Alex Craighead Wines / WINE CHAN WHITE 2023 with 小林(わいんちゃん、錦糸町) Organic / Wild yeast / No SO2 added / Unfiltered Upper Moutere, Nelson, New Zealand



