灯りをひとつだけ残して、冷蔵庫からボトルを出す。瓶の肩が、指のかたちに白く曇る。
注ぐと、色は思っていたより淡い。窓の外の街灯を受けて、サーモンピンクが光る。
口に含む。冷たい石と、かすかな塩。果実は、まだ奥で黙っている。
再生する。
ニューヨーク、ブロンクスのアパート。隣の部屋のドアを叩いたのは、コーヒーを切らしたからだった。それだけの用事だった。
ドアの向こうでは、一家が荷物をまとめている。父親は組織の帳簿をつけていた男で、その中身を外へ漏らした。今夜、殺し屋が来る。
父親は、小さな息子の胸に一冊の手帳を押しつける。男になれ、強くなれ、誰も信じるな、と言う。母親は、隣の女に頭を下げる。この子を連れていって。
子どもは嫌いなの、とグロリアは言う。あんたのところの子は、とくに。
それでも数分後、彼女は六歳の少年の手を引いて、廊下に出ている。背中で、銃声を聞く。
グラスの中は、まだ硬い。今夜は、それでいい。この映画も、はじめは誰にも優しくない。

一杯の肖像
グラスを、街灯のほうへかざす。
淡い。夕方の光を受けた肌のような、サーモンピンク。可憐な色だと、誰もが思う。
けれど、冷たいうちに口に含むと、印象が裏切られる。舌に触れるのは、果実より先に石だ。乾いた、噛めそうなミネラル。その下を、塩がひと筋、細く通っていく。赤い果実も、薔薇のつぼみも、まだ閉じたまま、奥で待っている。
ぶどうは、シラー。スペイン国境の手前、アルベールの山裾の畑で育った。房のまま、そっと搾る。色がつきすぎる前に、果汁だけをとる。化学的なものは使わず、亜硫酸もほとんど加えない。
名前は、ヴォン・ドゥヴー。船乗りの言葉で、船首に真正面からぶつかってくる風のこと。前に進むのが、いちばん難しい風だ。
造り手は、ローレンス・マニャ・クリエフ。昔から呼ばれてきたあだ名は、ヨヨ。

なぜ、グロリアにこのロゼなのか
硬さは、消えない。ほどけて、守るほうへ向きを変えるだけだ。
空き部屋の朝 — 開けたてのうちに
二人は、マンハッタンの空き部屋に隠れる。
テレビをつけると、少年の写真が映っている。誘拐の疑いがかけられているのは、グロリアだ。
彼女は少年の扱い方を知らない。二十の質問でもする? テレビでも見てる? 朝食に焼いた卵は、焦げる。置いてきた猫のことばかり口にする。あの子はどうなるの。あんたをどうすればいいの。
外に出ると、車が横に停まる。男たちが、帳簿を渡せと言う。グロリアはハンドバッグから銃を出して、撃つ。車は、ひっくり返る。
撃った瞬間に、彼女は知る。もう戻れない。この子と、同じ側に来てしまった。
グラスは、まだ冷たい。石と、塩。香りは少なく、口数も少ない。優しさは、どこにも見当たらない。
安ホテルと地下鉄 — 温まってくる
銀行の貸金庫を空にする。自分のために貯めてきたものを、鞄に詰める。泊まるのは、壁の薄い安宿だ。
少年は、父親の言葉を守ろうとする。おれが男だ、と叫ぶ。おれが男なんだ、あんたじゃない。グロリアは言い返す。あんたは何も聞かない、何もわかってない、頭がおかしくなりそう。
とうとう彼女は、少年を置いていく。走って逃げなさい、できるだけ速く。
けれど、少年が男たちに連れ去られたと知ると、彼女は戻ってくる。ひとりを撃ち、少年の手をつかみ、タクシーから地下鉄へ走る。追ってくる男たちを、車両の乗客たちが押し返す。
揺れる車内で、少年が言う。あんたは、ぼくのお母さんで、お父さんで、家族ぜんぶだ。友だちでもあるし、ガールフレンドでもある。
グラスも、手の中で温まってきた。石の奥から、赤い果実がのぼってくる。木苺と、赤すぐり。閉じていた薔薇のつぼみが、ゆっくりほどける。乾いたハーブの匂い。さっきまでの硬い飲み物と、同じものとは思えない。
それでも、舌の奥に、あの塩がひと筋ある。
最上階の部屋 — 底のほう
グロリアは、少年に言い含める。私が戻らなかったら、ひとりで列車に乗って、ピッツバーグへ行きなさい。
そして、ひとりで出かけていく。組織の男たちが集まる、ホテルの上の階の部屋へ。かつて、よく知っていた男たちだ。ハイヒールのまま、その部屋に入り、帳簿をテーブルに置く。
少年は、待つ。約束の時間が過ぎる。彼は、ひとりで列車に乗る。
グラスは、底のほうだ。すっかり手の温度になって、果実の奥から、胡椒のようなスパイスが立ってくる。ロゼというより、ワインそのものの味がする。
そして、塩のひと筋は、まだそこにある。開けたての冷たい石と一緒にいた、あの一本が、最後まで舌に残っている。
グロリアは、はじめから最後まで硬い女だった。その硬さは、なくならなかった。子どもの手を引いたとき、向きを変えただけだ。
芯のあるロゼなら、ほかにもある。この一本をこの映画の隣に置くのは、造り手が、グロリアと同じものを手放したからだ。
ローレンスは、パリの繊維業界で営業の責任者をしていた。三十五歳のとき、その仕事を離れた。故郷ペルピニャンに近いバニュルスへ移り、打ち捨てられた段々畑を買った。
その畑が捨てられていたのは、急すぎて、機械が入れなかったからだ。だから彼女は、ラバと馬と、自分の手で耕している。フランスでいちばん手間のかかる畑のひとつだと言われる。
グロリアも、貯めてきたものを鞄に詰めて、誰も引き受けない子どもの手を取った。
そして、このボトルの年。二〇二三年のルーションは、一年半雨がほとんど降らない、記録的な干ばつの中にあった。一年の雨は二百ミリに届かず、収穫は歴史的に少なかった。
名前のとおりの向かい風の年に、ぶどうは実をつけ、このロゼになった。

ルーション・バニュルス — 風の吹き抜ける斜面
フランスの最南端、スペイン国境の手前。ピレネー山脈が、地中海に沈み込む。その最後の斜面に、バニュルスの町がある。
黒い片岩の急斜面が、海からそのまま立ち上がる。そこに何世紀ぶんもの段々畑が刻まれている。少し北のアルベールの山裾では、土は花崗岩が崩れた砂になる。Vent Debout のシラーは、そちらの畑から来る。
ここは長く、甘口の酒精強化ワインの土地だった。いまはこの斜面に、自由なワインを造る小さな造り手たちが集まっている。
山から海へ、トラモンタンと呼ばれる乾いた強い風が吹き抜ける。海からは、潮を含んだ風が上がってくる。風は畑を乾かし、ぶどうを病気から守る。薬に頼らずに育てられるのは、この風のおかげだ。
この土地では、向かい風が、ぶどうを守っている。
ニューヨークの夜を逃げまわるうちに、グロリアは少年の母親になっていった。逃げることが、守ることになっていった。同じ逆さまの理屈が、この斜面にもある。

この映画の夜に
冷蔵庫から出して、少しだけ置いておく。瓶の肩が曇って、触れると指がひんやりするくらい。そのくらいで開けると、石と塩から始まる。
グラスは、白ワイン用の、少し膨らみのあるものを。温まるにつれて開いていく香りを、閉じ込めずにすむように。
テーブルには、アンチョビをのせたパンと、生ハム、オリーブ。バニュルスの隣町コリウールは、アンチョビの港だ。お腹が空いていたら、スパイスを効かせたラムか、ローストチキンを。
部屋の灯りは、ひとつだけ。窓の外の街灯が、グラスに届くくらいに。
グロリアが車に向かって撃つころ、グラスはまだ硬い。地下鉄で少年が家族の話をするころ、果実がほどけてくる。少年がひとりで列車に乗るころには、底のほうのスパイスと塩が待っている。
ひと口だけ、墓地の場面のために残しておく。
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ピッツバーグの墓地で、少年はひとりきりだ。 戻ると言った人は、戻らなかった。
一台の車が止まる。 白髪の老婦人が、ゆっくり降りてくる。
少年は、それが誰だかわかる。 走っていく。
子どもは嫌いだと言った人が、 両腕を広げて、待っている。
香りは、すっかり変わった。 塩のひと筋だけが、同じだ。
Film
グロリア / Gloria 1980 / アメリカ / 123分 監督・脚本: ジョン・カサヴェテス 出演: ジーナ・ローランズ, ジョン・アダメス, バック・ヘンリー 受賞: ヴェネチア国際映画祭 金獅子賞
配信
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