
栓を抜いたら、まず明るい赤を注ぐ。
光を通すルビー色。グラスの向こうの指が透けて見える。ひと口ふくむと、赤い果実と、張りつめた酸。よく喋るワインだ。
再生すると、父がまた、あの話をしている。
息子の結婚式の夜。祝杯を片手に、エドワード・ブルームは招待客に語りはじめる。息子が生まれた日、誰にも釣れなかった川の主を、自分の結婚指輪を餌にして釣り上げたのだ、と。客は笑い、花嫁も笑う。
ウィルだけが笑っていない。その話は、子どものころから何百回も聞いてきた。魚は聞くたびに少しずつ大きくなり、父は話のたびに少しずつ遠くなった。その夜、ウィルは外で父に言う。父さんの話の中には、父さんがいない、と。
それから三年、二人は口をきかない。
電話が鳴るのは、パリに住むウィルのもとだ。父が、もう長くない。ウィルは身重の妻を連れて、アラバマの実家へ帰る。
誰の父親にも、ひとつくらいはあるはずだ。何度も聞かされて、途中から結末を言えるようになった話が。聞き流してきたその話を、いつか自分から聞きに行く日が来ることも。
グラスの中は、まだ冷たくて、明るい。父の話も、まだ魚の大きさのままだ。

一杯の肖像
冷えているうちは、ガメイらしい顔をしている。野いちごと、黒みがかった木いちご。酸がぴんと張って、口の中で弾む。軽やかで、人なつこい。誰とでもすぐ打ち解ける種類の赤だ。
けれど少し温まると、話が変わる。果実のすぐ後ろから、ローストした玉ねぎや人参、ローリエのような、あたたかい匂いが立ちのぼる。ほろ苦い山のハーブ。焦がした皮のような渋み。果物かごというより、日曜の午後の台所に近い。軽いはずの品種が、いつのまにか大きな骨格を見せている。
造り手はフランソワ・ジル。2019年、フランス東部サヴォワのショタニュに「ドメーヌ・デ・ファーブル」——寓話のドメーヌ——を立ち上げた。ガメイの大半を房ごと醸し、長く皮と過ごさせてから、ボルドーの古樽で澱とともに9ヶ月。濾過はせず、亜硫酸は瓶詰めのときにひとつまみだけ。
彼のワインには、一本ずつ架空の人格がある。「見えざる星たち」「ガマブンバ」「シャタワンク」。ラベルの挿絵は毎年、自分の手で描き直す。
このキュヴェの名は「レ・クロニック・ド・ガルガンチュア」。16世紀フランスの民衆本で語られた、大ぼらの巨人の年代記だ。山をまたぎ、川を飲み干し、大聖堂の鐘を馬の首にかける。英語で釣り人の自慢話を「big fish story」と呼ぶのと同じ棚に、フランスではこの巨人が並んでいる。フランス語で書かれた、もうひとつの「大きな魚の話」だ。

なぜ、ビッグ・フィッシュにガルガンチュアなのか
大きな魚は、本当にいた。
冷たいうちに
実家の寝室で、父はベッドから起きられない。それでも、話すことだけはやめない。
少年のころ、沼のそばに住む魔女のガラスの目をのぞきこんで、自分の死に方を見た話。だから、それ以外の死に方は何ひとつ怖くなかったのだ、と。町の家畜を食い荒らすと噂された巨人カールの洞窟へ、たったひとりで出かけていって、こんな小さな町はきみには狭すぎる、一緒に出ていこう、と誘った話。道をそれた先の森に、住人がみんな裸足で暮らす町があって、ひとりの少女が彼の靴を電線に放り投げた話。
サーカスの人ごみで、ひとりの女性を見た瞬間に時間が止まった話もある。宙に浮いたポップコーンをかき分けて近づくと、彼女はもう消えていた。名前を知るために、団長のもとで三年ただ働きをした。ひと月にひとつずつ、彼女のことを教えてもらう約束で。そしてようやく居場所をつきとめると、彼女の窓の下を、一万本の水仙で埋めた。
ウィルは枕もとで、それを黙って聞いている。聞き飽きた話ばかりだ。
このあたりで、グラスを口に運んでほしい。冷たいまま、赤い果実と、弾む酸。ワインもまだ、少し話を盛っている。父の思い出の中の色が、みんな絵本のように鮮やかなのと同じで。
温まってくる
ウィルは事実を探しはじめる。
父の古い書類の中から、見覚えのない町の名前が書かれた権利書が出てくる。車を走らせてたどりつくと、町はすっかりさびれていて、外れの一軒家に、ひとりの女性が暮らしている。ジェニーだ。父の話では、靴を電線に放り投げた少女だった。
彼女は話してくれる。エドワードは、この町を丸ごと買い取って建て直したのだと。倒れかけていたこの家も、彼が直した。自分は彼を好きになった。けれど彼は、一度も帰る場所をまちがえなかった。彼の世界には、ずっとあなたのお母さんしかいなかったのだ、と。
家に戻ると、父は服を着たまま浴槽に浸かっている。水の中でしか、体が楽にならないのだ。母は何も言わず、服のままその隣に入り、夫の肩に頭をあずける。ウィルは扉の陰から、それを見ている。
このころ、グラスも温まってくる。ひと口ふくむと、さっきまで前に出ていた果実が一歩下がり、その後ろから、ローストした玉ねぎと人参、ローリエの匂いが立ちのぼる。誰かの台所の匂いだ。大きな話の下に、ずっとあった毎日の匂い。ウィルが三年も探そうとしなかった父は、たぶん、こういう匂いがした。
底のほう
ある夜、父は病院へ運ばれる。
廊下で、古い主治医がウィルに、彼が生まれた日の本当のことを教えてくれる。父は仕事で町を離れていて、間に合わなかった。お産は何ごともなく済んだ。魚も、指輪も出てこない。どちらの話がいいかと聞かれたら、わたしは魚のほうを選ぶがね、と医師は言う。
付き添いの椅子で眠っていたウィルが目を覚ますと、父がこちらを見ている。もう、長い話をする力はない。父は、魔女の目の中に見た最期の場面を、自分では語れなかったその続きを、息子に話してくれと頼む。
ウィルは話を作ったことがない。それでも、はじめる。
二人で病院を抜け出す。車椅子を押して廊下を駆け抜け、車に乗せ、川へ向かう。川辺には、父の話に出てきた人たちが、みんな並んで待っている。巨人も、サーカスの団長も、ジェニーも。みんな笑っている。母もいる。ウィルは父を抱きかかえて、川の中へ入っていく。腕の中で、父は大きな魚になり、するりと手を離れて、深いほうへ泳いでいく。
そうだ、そのとおりだ、と父は言う。そして、息を引き取る。
葬儀の日、ウィルは参列者の顔を見て、目を疑う。父の話の中の人たちが、本当に来ているのだ。巨人は、背は高いけれど、巨人というほどではない。いつもくっついていた双子は、ただのよく似た姉妹だった。誰もが話より少しだけ小さくて、そして、ひとり残らず本物だった。
グラスに残しておいたひと口を、ここで飲む。すっかり温まったワインは、果実がほとんど引いて、ほろ苦いハーブと、焦がしたような渋みと、しっかりした骨格が舌に残る。冷たいうちの華やかさより、少しだけ小さい。けれど、こちらが本当の姿だ。
ガメイなら、ボージョレにいくらでもある。軽やかで、果実の明るい一本なら、もっと手ごろなものもある。それでもこの一本をこの映画の隣に置くのは、果実のほら話の下から、台所の匂いのする本当が出てくるからだ。フランソワ・ジルは、これに大ぼらの巨人の名前をつけて、中身を本当のことだけで満たした。

ショタニュを旅する
畑から湖へ下る農道は、石だらけだ。
靴の底で、砂岩と石灰岩のかけらが鳴る。道の片側に古い木の柵、もう片側に森。小川の音がして、その先に牧草地がひらける。葡萄畑は、その間に少しずつ挟まっている。坂を下りきると、氷河が削ったブルジェ湖が、山の影を映して横たわっている。西の低地では、ローヌ川がゆっくりと大きく曲がっている。
サヴォワと聞くと、アルプスのスキー場と、チーズフォンデュに添える白ワインを思い浮かべるかもしれない。ショタニュは、その定番の絵から少し外れた、サヴォワの西の端にある。南西を向いた斜面は午後の日をたっぷり受け、湖と川が冬の寒さと夏の暑さを和らげる。葡萄だけが地平線まで続く景色ではない。森と水と草地と、そこに住むいろいろなものが、畑を囲んでいる。寓話の挿絵のような土地だ。
フランソワ・ジルがここにドメーヌを構えたのは2019年。畑は有機で、ビオディナミを実践している。発酵は野生の酵母に任せ、熟成は「星の動きに導かれて」進むのだという。真顔で言われると、少し大げさに聞こえる。けれど湖のほとりのこの斜面では、月の満ち欠けで樽を動かす男の話も、巨人が川を飲み干す話も、同じ棚に自然に収まっている。
夕方、湖の向こうの山が青くなるころ、葡萄の房は昼の熱をゆっくり手放していく。

この映画の夜に
夕飯の支度をはじめるころ、瓶を冷蔵庫から出しておく。触るとまだひんやりしているくらいで、栓を抜けばいい。グラスは、中くらいのボウルのもので十分だ。
テーブルには、時間をかけて作る料理を。オーブンで焼いた丸鶏と、同じ天板で焼けた根菜。ハーブを入れて、午後いっぱい煮込んだ鍋。このワインの温まってから出てくる匂いは、そういう台所の匂いとよく似ている。
できれば、誰かと観てほしい。この映画は、静かに観なくてもいい。話しながら、笑いながらでいい。
グラスは急がずに。父がほら話をしているあいだは、冷たくて明るいまま飲む。ウィルが事実を探しに出るころには、ワインも温まって、台所の匂いがしはじめる。そして病院の場面の前に、ひと口だけ残しておく。川の場面のために。
エンドロールが流れはじめたら、隣の人に、自分の父親の話をひとつしてみてほしい。何度も聞かされた、あの大げさな話を。
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何年かあと、ウィルの小さな息子が、祖父の話を友だちに聞かせている。魚は、また少し大きくなっている。
ひとは同じ話を何度も語るうちに、その話そのものになる。
瓶は空いた。次に語るのは、あなたの番だ。
Film
ビッグ・フィッシュ / Big Fish 2003 / USA / 125分 監督: ティム・バートン 撮影: フィリップ・ルスロ 音楽: ダニー・エルフマン 出演: ユアン・マクレガー, アルバート・フィニー, ビリー・クラダップ, ジェシカ・ラング 原作: ダニエル・ウォレス『ビッグフィッシュ――父と息子のものがたり』
配信
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2026年9月時点 · JustWatch
Wine
Domaine des Fables / Les Chroniques de Gargantua 2021 Gamay 100% / 樹齢約35年 大半全房 / ボルドー樽で澱とともに9ヶ月 / 無濾過 / SO2極少量 Chautagne, Savoie, France



