
1982年、冬のストックホルム。ユースセンターの音楽室に、13歳の少女が二人いる。
ボボはドラムの前に座る。叩いたことは一度もない。クラーラはベースを肩にかける。弦が何本あるのかも、たぶん知らない。部屋を予約した理由は、いつもここを占領している男子バンドが気に入らなかったから。それだけだ。
スティックが振り下ろされる。音は、ばらばらに跳ねる。リズムはない。曲もない。それでもクラーラは、マイクに向かって叫びはじめる。
誰にでも、下手なまま何かを始めた日がある。上手くなってからにしよう、と思う前に、もう手が動いていた日。ルーカス・ムーディソンの『ウィ・アー・ザ・ベスト!』は、その日の音を、102分ぶん鳴らしつづける映画だ。
冷蔵庫から瓶を出して、栓を抜く。注いだ液体は、少し濁った琥珀色をしている。

一杯の肖像
グラスを明かりにかざすと、オレンジがかった琥珀が、うっすらと霞んでいる。瓶の底には、細かな澱が沈んでいるかもしれない。濾過をしていないからだ。
鼻を近づけると、最初に来るのは果物ではない。少し野性的な、畑の土や藁のような匂い。何も足さずに瓶に詰めたワインは、開けたばかりのとき、ときどきこういう寝ぼけた顔をする。グラスを二、三度まわして、待つ。
やがて、干したアプリコットが立ちあがる。オレンジの皮、かりん。熟した黄色い果実の甘い香りだ。その奥に、カモミールと紅茶、はちみつ、炒ったナッツが隠れている。
口に含むと、甘くない。舌の上で、ざらっと小さく引っかかるものがある。白葡萄を果皮ごと漬けこんだときにだけ生まれる、軽い渋みだ。そこへ、塩気のようなミネラルと、はっきりした酸が走る。飲み込んだあと、オレンジの皮を噛んだときの、ほろ苦さが残る。
ラベルには、Brutal と書いてある。スペイン語の口語で「ヤバい、最高」。硫黄も何も足さないこと、を唯一のルールにした、造り手たちの合言葉のようなレーベルだ。お金を払えば名乗れるものではない。認めた造り手から造り手へ、招待状のように手渡されていく。
その最初の仲間の一人が、カタルーニャのジョアン・ラモン・エスコーダ。葡萄はグルナッシュ・ブラン。2021年の収穫だ。

なぜ、『ウィ・アー・ザ・ベスト!』に、Brutalなのか
上手さより先に、叫びがあった。
音楽室の予約表
最初の曲は、体育の授業への恨みでできている。「憎きスポーツ」。歌詞は、ボボとクラーラが日ごろ腹を立てていることを、そのまま並べただけだ。
誰も、コードの押さえ方を教えてくれない。二人も、教わろうとしない。「バンドをやる」と決めたときには、もうバンドは始まっていた。
グラスのなかも、まだ整っていない。開けたての、少し野性的な匂い。けれど鼻の奥には、もう何かが鳴りはじめている。Brutal——「ヤバい!」という叫びがそのまま名前になったワインは、説明より先に、こちらへ来る。
短く切った髪
学校の発表会で、クラシックギターを弾く少女がいる。ヘドヴィグ。誰も聴いていない客席で、彼女だけが真剣に弾いている。ボボとクラーラは、彼女をバンドに誘う。
三人になったバンドで、二人はヘドヴィグの長い髪を短く切る。帰った娘を見て、母親は顔色を変える。それでもヘドヴィグは、ギターを持ってまた音楽室へやってくる。ほんとうに弾ける子が、いちばん歪んだ音を出すことになる。
そのころ、グラスのなかで果実が起きてくる。干したアプリコット、オレンジの皮、かりん。舌には、果皮ごと醸した白だけが持つ、ざらっとした手触りがある。磨かれていないのではない。果皮の力を、あえて残している。
ヴェステロースのステージ
年の瀬、三人は地方都市ヴェステロースのクリスマスのイベントで演奏する。客席から、野次が飛ぶ。クラーラはその場で歌詞を書き換えて、叫び返す。ステージは、ちょっとした騒ぎになる。
演奏は、最後まで上手くならない。この映画は、それをごまかさない。上達の話ではないからだ。
帰りのバスで、三人は声を合わせる。私たちは最高。
グラスの最後のひと口は、塩気と酸がきゅっと締まって、オレンジの皮の苦みで終わる。甘い余韻ではない。けれど、なぜかもう一杯注ぎたくなる。ブーイングを浴びた帰り道で、それでも笑っている三人と、同じ後味だ。

コンカ・デ・バルベラを旅する
バルセロナから、内陸へおよそ百キロ。海の匂いが消えたあたりに、中世の城壁に囲まれた町モンブランがある。そのまわりに広がる盆地が、コンカ・デ・バルベラだ。
丘は石灰岩と粘土で、乾いている。日中は陽に焼かれ、夜は標高のぶんだけ冷える。グラスのなかの塩気のような硬さと、最後まで緩まない酸は、この寒暖の差から来ている。
ジョアン・ラモンと妻のマリーカルメ・サナフヤがここで蔵を始めたのは、1999年。葡萄の畑のあいだに、オリーブとアーモンドの樹、野菜の畑がある。ビオディナミの調剤も、自分たちでつくる。
2005年、二人はすべてのワインから亜硫酸を外した。当時のスペインで、それはまだ異端の選択だった。パンクは死んだ、と言われた年にバンドを始めた少女たちのように、彼らも周りの声を待たなかった。そのボトルは、のちにエル・ブジやノーマのテーブルにも並ぶことになる。
収穫箱を古いバンに積みこみ、石壁の脇を通って蔵へ運ぶ。畑で仕上げて、蔵では何も足さない。濁った琥珀は、そのまま瓶に入ってくる。

この映画の夜に
温度: 10〜13℃。冷蔵庫から出して、十分ほど置いてから抜栓する。冷やしすぎると香りが閉じたままになる。グラスのなかで少しずつ温まるにつれて、アプリコットとはちみつが開いてくる。
グラス: 白ワイン用の、少し口の広いもの。気取らずにタンブラーで飲むのも、この映画には似合う。注いだら一度、明かりにかざして、濁った琥珀を見てほしい。
開けたて: 最初の匂いが少し野性的でも、心配はいらない。グラスをまわして数分待てば、果実が起きてくる。澱が気になるなら、終わりぶんは瓶に残しておく。
時間: 102分。音楽室でスティックが振り下ろされるところで注ぐ。まだ寝ぼけた香りのまま、ばらばらの音と一緒に飲みはじめる。ヘドヴィグが加わるころに注ぎ足す。果実が起きている。最後のひと口は、ヴェステロースのステージまで残しておく。
食事: 塩気と油があればいい。ポテトチップス、アンチョビ、スペインのオムレツ。天ぷらや、出汁の効いたおでん、生ハムや熟成したチーズ、鶏のグリル、きのこのソテーにもよく合う。軽い渋みと苦みが、揚げ物の油をすっと切る。
次の夜: 飲みきれなかったら、栓をして冷蔵庫へ。二日目、三日目と、果実とうまみがふくらんでいく。一本で、二晩、三晩ぶんのライブが聴ける。
ヴィンテージ: 2021年。無濾過・無清澄、亜硫酸は無添加。瓶ごとの個体差があり、入ってきた本数は多くない。
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パンクは死んだ、と誰かが言う。
帰りのバスで、三人はまだ叫んでいる。
グラスの底に、オレンジの皮の苦みが残っている。
Film
ウィ・アー・ザ・ベスト! / Vi är bäst! (We Are the Best!) 2013 / スウェーデン・デンマーク / 102分 監督・脚本: ルーカス・ムーディソン(原作: ココ・ムーディソン『Never Goodnight』) 撮影: ウルフ・ブランテス 出演: ミーラ・バルクハンマル, ミーラ・グロシーン, リーヴ・ルモイン ほか 受賞: 第26回東京国際映画祭 東京サクラグランプリ
配信 主要配信では見つかりません
2026年9月時点 · JustWatch
Wine
Escoda-Sanahuja / Brutal 2021 Garnatxa Blanca(果皮ごと醸したオレンジ) ビオディナミ / SO2無添加 / 自然酵母 / 無濾過・無清澄 Conca de Barberà, Catalunya, Spain



