
思い出してみてほしい。 名前も知らないまま覚えている、いちばん古い甘さを。
縁日の、しぼんだ綿あめ。祖母の家の戸棚にあった、固くなった飴。誰かの手のひらから受け取った、溶けかけの何か。
インドの、小さな町の駅前。5歳の少年が、露店のガラスに額を押しつけている。熱い油の中で渦を巻き、蜜の鍋に沈められていく、オレンジ色の揚げ菓子。ジャレビ。
兄が言う。いつか、買ってやる。
少年の目の高さから見る世界は、大きくて、埃っぽくて、甘い匂いがする。
注ぐ。黄金色、と呼ぶには少し濃い。夕方の露店の灯りで見た、あの蜜の色に近い。
鼻を近づける。マーマレードの瓶を開けたときの、煮詰めた柑橘の皮の匂い。その奥に、洋梨と、バラ。
甘い、と思って口に含む。
甘くない。

一杯の肖像
香りは蜜なのに、中身はからりと辛口。このワインは最初に、そういう小さな裏切りをする。
蜜の匂いだけを舌に残して、甘さはどこにもない。かわりに、柑橘の皮を噛んだようなほろ苦さが、舌の奥にゆっくり広がる。飲み込んだあと、頬の内側に、細かな渋みがかすかに残る。白葡萄を果皮ごと醸したワインだけが持つ、手ざわりだ。
葡萄はアルネイス。北イタリア、ピエモンテの丘で生まれた白品種だ。土地の言葉で「小さなならず者」を意味するとされる。育てにくく、気難しく、1960〜70年代には、故郷でさえほとんど植えられなくなった。一度は、迷子になりかけた葡萄だ。
その葡萄が、いまは赤道をまたいだ南オーストラリアの赤土に根を張っている。
造り手は、ジャウマのジェームス・エルスキン。もとは、ワインを注ぐ側の人だった。国のソムリエ・オブ・ザ・イヤーに選ばれた男が、グラスの向こう側へ、畑へ渡った。
彼のワインには、葡萄のほかに何も入っていない。酵母も、亜硫酸も足さない。濾過もしない。だからこのグラスで香るのは、この葡萄がどこで、どんな夏を過ごしたか、それだけだ。
キュヴェの名前は「Origins」。出自、という意味だ。

なぜ、LIONにOrigins Arneisなのか
舌は、頭より先に思い出す。
開かないドア
冷蔵庫から出したばかりのグラスは、まだ閉じている。香りは遠く、輪郭が硬い。
夜の駅。兄を待つうちにベンチで眠ってしまった少年は、目を覚まして、停まっていた空っぽの列車にもぐり込む。また眠る。次に目を開けたとき、列車は走っている。窓の外を、知らない景色が流れていく。ドアを叩いても、開かない。
何日も走って、着いたのは1600キロ先のカルカッタ。彼が叫ぶ町の名前は、誰にも通じない。
このワインも、冷たすぎるうちは、なかなか話してくれない。急がなくていい。グラスを手のひらで包んで、少し待つ。
メルボルンの食卓
25年が経つ。少年は海の向こうのタスマニアで、ブライアリー家の息子として、愛されて育った。
友人たちの家のパーティー。インド出身の仲間が並べた料理の中に、見覚えのある形がある。オレンジ色の、渦を巻いた揚げ菓子。
指でつまむ。口に運ぶ前に、手が止まる。
駅前の露店。ガラスに押しつけた額。兄の声。
記憶は、頭より先に、指と舌が思い出す。
グラスも、このあたりで開いてくる。手の温度が移って、閉じていた香りがほどける。マーマレードの甘い苦さ、煮詰めた果物の蜜、洋梨。さっきまで遠かったものが、急に近くにある。
夜ごとの地図
それから彼は、毎晩ラップトップの光の前に座るようになる。覚えているのは、給水塔と、駅のホームと、川の形だけ。列車に乗っていた時間から距離を割り出し、地図に円を描く。円の中は、途方もなく広い。
探していると知られたら、育ての母を傷つける気がして、誰にも言えない。恋人の声が、だんだん遠くなる。
探すことは、甘くない。
時間の経ったグラスの中で、最後まで引かないのは、果皮の苦みだ。甘い香りがどれだけ開いても、舌の奥に、それがいる。
二人の母
ある夜、画面の中に、見覚えのある給水塔が見つかる。線路をたどる。川が曲がる。
彼はインドへ飛び、記憶の道を、自分の足で歩く。角を曲がるたびに、景色が記憶に重なっていく。そして一軒の家の前で、25年待ちつづけた人と向き合う。
彼には、母が二人いる。産んでくれた人と、育ててくれた人。どちらかが本物で、どちらかが代わりだったわけではない。映画は最後まで、そのどちらも手放さない。
このワインにも、土地が二つある。蜜のような熟れ方は、育った南の太陽から。舌の奥のほろ苦さは、アルネイスという葡萄の皮から。どちらかを消したら、この一本にはならない。
蜜の香りのオレンジワインなら、ほかにもある。この一本をこの映画の隣に置くのは、甘い香りのすぐあとに、皮の苦みが来るからだ。25年目の「ただいま」は、甘いだけでは終わらない。

マクラーレン・ヴェイルを旅する
地図アプリを開いて、アデレードから南へ、指でたどってみる。車で40分ほど。海と丘に挟まれた赤茶けた大地に、緑の畑が斑点のように散っている。サルーが毎晩のぞきこんでいた、あの衛星写真と同じ色だ。
拡大する。赤い粘土の農道。低い畝。その向こうに、セント・ヴィンセント湾の青。
夏は乾いて、暑い。午後になると湾から海風が上がってきて、畑の熱をさらっていく。アルネイスの房は、その風の中で熟す。
エルスキンは、有機で育てられた畑の葡萄を使う。土壌化学を学んだ人がたどり着いたのは、「土にまかせる」だった。
ピエモンテの霧の丘から、赤道を越えて、南の赤土へ。気候も言葉も違う土地で、この葡萄は根を張った。移された場所で咲くことは、根を裏切ることではない。

この映画の夜に
エンドロールに、本物のサルーと、二人の母の映像が流れる。部屋の明かりは、まだつけないでおく。
ボトルは10〜12℃に冷やしておいて、注いだら、あとはゆっくり温まるのにまかせる。冷たいうちの硬さも、手の温度でほどけていく蜜の香りも、このワインの一部だ。グラスは、口のすぼまった大ぶりの白ワイングラスを。香りが開いていくのが、よくわかる。
テーブルには、カレーを。バターチキンでも、豆のカレーでもいい。スパイスの熱と油を、果皮のほろ苦さが受けとめる。サモサがあれば、なおいい。
インド食材の店でジャレビが見つかったら、ひとつ。甘い蜜の菓子と、甘くないワインを、交互に口に運ぶ。さっきの映画の甘さと苦さが、そのまま舌の上に戻ってくる。
それから、地図アプリを開く。あなたが生まれた町を探して、少しずつ拡大していく。通った道。まだあるかどうかわからない店。
119分の映画と、ボトル一本。二人なら、ちょうどいい長さだ。
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彼の名前は、ほんとうは「シェルー」だった。 ライオン、という意味だ。 5歳の舌が、言い違えていた。
名前の中に、故郷は隠れていた。
グラスの底に、蜜の香りと、すこしの苦さが残っている。
あなたの舌は、たぶんもう、それを覚えた。
Film
LION/ライオン 〜25年目のただいま〜 / Lion 2016 / オーストラリア・アメリカ・イギリス / 119分 監督: ガース・デイヴィス(原作: サルー・ブライアリー『25年目の「ただいま」』) 出演: デヴ・パテル, サニー・パワール, ルーニー・マーラ, ニコール・キッドマン, デヴィッド・ウェンハム 受賞: 第89回アカデミー賞 6部門ノミネート
配信
見放題 U-NEXT / WOWOWオンデマンド / Plus GAGA Amazon Channel
レンタル Prime Video / Apple TV Store / Google Play Movies / FOD
2026年9月時点
Wine
Jauma / Origins Arneis 2022 Arneis 100%(カーボニック発酵、ファイバーグラス熟成) 完全無添加 / オーガニック / Alc 13.5% McLaren Vale, South Australia



